鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

7/7 保証

人間は、特に社会人は自身を"保障"してくれる存在が大好きだ。

つまり、『あなたに何かがあったら、代わりに責任をとる、補てんする』存在だ。

以前(今もか?)、『田中角栄ブーム』というやつがあった。
中でも、『思った通りにやれ! 責任は俺がとる!』という言葉がクローズアップされた。
これを聞いて、『さすが角栄。こうして組織を動かしていたのか!』とか、『抜群の人身掌握術だ!』『こういう男の元なら働きたい!』などという感想を聞いた。

かなり違和感を覚えた。
確かに田中角栄のこの言葉は、常に『責任』を問われる社会で堪らない甘美さを与えてくれる。
何かをして、その責任を"上司"が背負ってくれるのだ。
堪えられない嬉しさだろう。

だが、皆の責任を負う田中角栄みたくなりたいか?

つまり、『田中角栄みたいな上司は欲しい』が、『田中角栄みたく、他人のやった事の責任などは取りたくない』『田中角栄にはなりたくない』はずだ。

そこには自分は好きに行動、発言したいが、他人の勝手な行動、発言は認めたくない、という狭義がある。
"ブラック責任"の時にも書いたが、人間は他者の責任など絶対に取りたくないのだ。

だから、人は担保を払い、"もしも"の時に備える。
担保さえ払っておけば、自分の身は安全であり、そうしてくれる存在を求める。

『仕事でミスしたら、代わりに庇ってくれる上司or自分より立場の低い部下』
『何があっても、自分の財産、身分を保障してくれる会社。だから会社という組織にいたい』
『ヤバい事になっても、私は"上司"に従ってやっただけ。責任は無い』

みんな、自分の身が1番なのだ。
『長いものに巻かれろ』
『寄らば大樹の陰』というやつだ。
田中角栄ように"頼れる"存在の陰"でノーリスクで生きていきたい。
自分が頼れるのは良いが、頼られるのは大嫌いだ。

断っておくが、俺はそうした生き方を否定する気はない。
というか、俺自身、病気になる前はそんな感じで生きていた。
会社、親、誰かに頼り、それで生きている自分に何の疑いも抱いていなかった。

だが、2回目の手術が終わり、社会復帰を目指す中で、いかに自分が危ういモノに頼っていたか、を痛感した。
俺が頼って、信じていたものは全て"虚構"のようなモノだった。
どの担保も俺を保障などしてくれなかった。
組織から一度外れた俺に与えてくれる保障など全くなかった。

…って、書いておきながら何だが、そうしていきる世間の人間を否定するわけではない。
『長いものに巻かれろ』はやはりお得だし、便利だ。
『寄らば大樹の陰』で生計を立てている人もいるだろう。それはそれで大変な事だろう。
何かあれば、自分以外の誰かが責任を取ってくれるが、それは担保(時間、我慢)を払っているからしょうがない。
誰かの下、組織は実に働きやすく、魅力的で安全な場所かもしれない。

俺がそんな場所から離れてもう数年が経つ。
誰も俺を保障などしてくれないが、俺は前より"生きやすさ"を感じている。
誰のせいにもできないが、誰の世話にもならないから、誰も俺を制約されない。

それに、とても"生きやすさ"を感じている。
誰の事も気にせず生きていけるのは、素晴らしい事と思う。

だが、代わりに失ったものもある。
金だ。
今の俺の収入は当初の3分の2ほどしかない。
これでも退院直後からは10分の1くらいだったので、俺としたら『よくここまできたな』という気持ちが事実だが。

その代わりだが、俺は自由だ。
誰にも何の制約されない。
嫌なことはやらない。
嫌なヤツとは関わらない。
頭に来たら、すぐ怒鳴り付ける。
嫌われようが、好かれようが気にならない。俺は俺。
誰にも文句は言わせない。言われない。
何も気にならない。

代わりに、全て自己責任だ。
誰も我が身を助けてはくれない。
そして、自由を得た代わりに金は無い。

それでも、二度目の手術から退院して五年。俺はこんな"生き方"に満足している。
金は無い。人脈も無いが、俺は清々しく生きている。他人に遠慮する事なく生きている。
それが自分らしい"俺の人生"だと思う。他人に遠慮し、気持ちを推し測り行動し、誰かからの"庇護"を期待していた、かつての自分が馬鹿らしい。

ただ同時に、他人に頼っている生き方を否定はしない。
多くの社会人はそうして生きている。
そんな人からすれば俺の言っていることなど、
「馬鹿馬鹿しい。甘いよ!」
「そんな生き方、家族を養う為に我慢してんだ!」
「妄想たな。結局、貧乏なんだろ?」
たぶん、世間的には他人に頼る生き方の方が普通だろう。そうして多くの社会人が金を稼いで生きている。

俺が他人を頼る生き方をもう"あえて"しないのは、そうした生き方に結局"先"が無いからだ。
田中角栄みたいな上司ばかりではない。他人のために生きる人生で、その"他人"が果たして貴方を真に救ってくれる"存在"か?
『大丈夫。何かあれば、"上"が責任取ってくれる』とか、『私は悪くない。"上"の命令に従っただけだし…』というのは、信じてよいのか?
都合良く、"エスケープ・ゴート"にされないか?
もっと言うと、それは"自分の人生"と言えるのか?
"キレイ事"を言いたいわけじゃない。
そうした方がお金は稼げるだろうが、悲しくないか?
他人に自分の人生を"保障"されるなんて…。

俺の人生は俺のものだ。
他人に左右されない。
ミスすれば、自分のせいだし、リスクは自分自身に降りかかる。

だから、良いんだ。

良いことも、悪い事も自分の責任でやる。
だから自由だ。
これは俺の人生だ。

おまえの人生は誰のものだ?