知人に
『プロレス好きなんだよね』
というと、よく言われるのは、
『プロレスって八百長でしょ?』
というある意味、侮蔑に近い質問をされる。
昔は「UWFインターナショナルという…」と格闘技系プロレス(それはプロレスなんだが…)の存在を告げ、
今は「そんじゃ、見なけりゃ良いじゃん」という。
プロレスと格闘技を、観る側が"選択"出来るのだから、プロレスに『観るべき価値が無い』と思うなら、観なくても良いはずだ。
ただ、プロレスを見れば、"リアル"とは違うと一見してわかるはずだ。
それが『八百長だ!』と批判して、皆がそれに同調するなら、プロレスというジャンルは消えているはずだ。
事実、2,000年代前半にはプロレスは格闘技に押され、勢いが無くなった時期があった。
それでもプロレスは無くならなかった。
"八百長"が良くないことなら、プロレスは消えるべきはずだ。
じゃ、プロレス側が「我々は"お芝居"をやっているんです!」と宣言すれば良いか?
しかし、そんな事をしているプロレス団体を聞いたことは無い。
(WWEは裁判で表明したらしいが…)
それって、つまり『言わぬが花』というヤツではないか?
ロープに振って、綺麗に跳ね返ってくるわけはない。
一度、決まった関節技は暴れても解けないはずだ。
なら、何故プロレスというジャンルは無くならない?
『くだらん!』と思う人間が多ければ、プロレスは無くなるはずだが、無くならないのは、プロレスという"トリック"を認め、『楽しめる人』は楽しめば良いという事ではないのだろうか?
俺が熱心に観ていたUインター。
プロレスの守護神と思っていたUインター。
格闘技団体と思っていたUインター。
それは単なるプロレス団体だった(そういえば、高田延彦は"プロレスリング"と名の付くベルトを巻いていたな…)。
それでも俺は、プロレス自体からは離れなかった(薄くなったけどね)。
"トリック"と書いたが、もちろん"嘘"とも言い換えできる。
そう言うと、途端にプロレスが"存在していないよう"に思える。
だが、"トリック"というと、"存在できそうな"事象に思える。
どちらかが良いかは、観る側の受け取り方だ。
事実、海外のWWEなどはオープンにしながらも(積極的ではないが…)、人気を得ている。
昔、三重県のファミレスに深夜1人で食事した日、サッカーの日本代表戦があったらしく、隣の席のサッカーファンらしき客が必死に喋っていた。
「あの勝ち方じゃ、まだ甘いね。トルシエ(当時)は分かっていないよ…」
日本が勝った試合直後だったのだが、その勝ち方が、その人からすれば気に入らなかったらしい。
隣で聞いていたが、心の中で思った。
『…それは無理だろ?』
サッカーが"リアル"である以上、観客1人1人が納得し、歓喜する試合などあるわけがない。
リアルなら、そんな試合100回見て、1回あるかないか、だろう。
プロレスは違う。
毎回、毎試合、熱戦と逆転の連続だ。
そこにトリックがあるからだ。
リアルに自分の望む"結実"がもたらせるの無理だ。
さて、どちらが面白いだろう?
もちろん、その隣のサッカーファンに言わなかったが、リアルの『味気なさ』を嘆くなら、トリックの『甘美』に熱狂出来ないだろうか。
プロレスを『八百長!』とバカにする人は、自分にもたらされる『現実』に満足しているわけではない。
だから、プロレスをバカにするのは、望んでいる理想と現実の"差とに耐えられないはずだ。
では、都合の良い理想ばかりを見せてくれるプロレスは、あまり良いものではないのか?
だが、プロレスは一見するば、そのトリックが分かってしまう。
ならば、そこには"都合の悪い"現実がある。
ならば、そこに理想を目指したい自分の姿がある。
それも、一つの『現実』ではないのか?
人は、理想の中に生きる。
『こうであって欲しい現実』を思い込む。
だが、現実は違う。
己の現実は理想とは違う。思い込んだ理想は必ずしも現実にはならない。
プロレスという"理想"にすがる俺は、現実を拒否した"情けない奴"だ。
だが、プロレスのリアルには自分の都合の良い理想だけかあるのではない。
『これでいいの?』という問いかけが必ずある。
リング上で行われていることが、"理想"に過ぎないと分かれば、分かるほどその裏にある"現実"の色合いは大きくなる。
思った通りの現実は来ない。
理想は理想。理想に生きるのは素晴らしいかもしれない。
だが、現実は我々を追いかけてくる。
現実は必ず、自分の前に現れるはずだ。
俺にも、あなたにもな。