鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

"死"とは何か?

ここ数日、神奈川県座間市の連続遺体事件がワイドショーを賑わせている。

そこで思う事がある。

この容疑者の若者。
何か思い違いをしていないか?

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SNSで出会った自殺志願者を、巧みに誘って自宅で殺していたらしい。

まさか、コイツ。
『自殺志願者だから、死んでも良い』みたいな事を思ってはいないか?

『死ぬのは人の勝手。俺はそれを手伝っているだけ』

そんな考えをしていたら、それは絶対に間違っている。

俺は人には"死ぬ自由"など無いと思っている。

以前、あるテレビ番組で観たが、『心臓が何故、動いているのか』は、分からないらしい。
自律神経からの"電子信号"が心臓を動かしているらしいが、何故、そんな"信号"が出ているのか、それは今も判然とはしていないらしい。

人は"何故生きている"のか、科学的にはわからない。
それは『生きていたい』という、"心の動き"がそうしていたいから、としか言えないのでは?

ならば、である。
『死にたい』なんて思う感情自体も"生きているから"こそ、思える事ではないか?

人は誰に生かされているのか?

それは、自分自身だ。
他人でも、"神様"などという曖昧なものでは無い。

『死にたい』などと思っていても、人は生きる。"生きる"ようになっている。

つまり、『死にたい』は『生きている』という叫びでは?
『死にたい』などと思っていても、人は生きる。"生きてしまう"のだ。

そこに『死ぬ自由』などがあるか?
人は生きるしかない。

それを勝手に『死にたいなら手伝うよ』など、要らん"お世話"で迷惑な話では?

思い上がりにさえ、感じる。

今から数年前、東日本大震災で息子夫婦、孫を失ったあるお爺さんが、『生きていても仕方ない…』と、自殺を決意して山中に入り、首をくくろうとした。
だが、出来ない。
全く出来ない。
木にロープをかけるが、首にかけられない。
死ぬのが怖くて仕方無くて、どうしても出来ないらしい。

家族を失った人でさえ、自分で自分を殺せない。
絶望を味わっても、死ねない。
"生"にすがっていたいのだ。

それが人間だと、思った。
『何故、生きている?』と思うのは、"生きているから"だ。

だから、生きているなら、『死ぬ自由』がそもそも、無い。

また、生きている事の反対は、"死"ではない。

死とは何か?

それは、"無"ではないか?
寝る前にテレビを観ていて、『そろそろ寝るか?』と、消した時の、あの静けさ。何とも言えない虚無感。
あれが、"無"であり、"死"ではないか?

生の反対は、"何も無い"という事。
荘厳であったり、華麗で憐憫さのあるものではなく、ただ自身が"無くなる"という現象。

死ぬ事では自身を含め、誰も救われないし、助からない。
苦痛は消えない。

死は、救いでは無い。

それが死では?

俺にも、そう思うわけがある。

6年前の、1回目の腫瘍除去手術。
主治医は『無理はしない』と言ってくれていたが、やはり手術直前は怖かった。

俺の人生、これで終わりか?

そう思った。

だから、手術後、意識を取り戻した時には『あぁ、俺は生きている』と実感した。
自分の"存続"が嬉しかった。
生きていることが、嬉しかった。
自分の生にすがり付いていたかった。

それが、人間だ。
生きていることだ。

今もそうだ。
生きているのが、嬉しい。
貧乏でも嬉しい。
他人にバカにされても、生きていたい。
人に迷惑をかけたくはないが、生きていたい。

自分が無くなるなど、考えられない。
『無くなる』自由などない。何故なら『生きている』からだ。

だから、だ。

『自殺を手伝う』などという事が、許せない。
そんなわがまま許されない。

お前にそんな権利も自由は無い。
今も、これからもな。


…ま、俺の勝手な想像だが。