ここ数日、神奈川県座間市の連続遺体事件がワイドショーを賑わせている。
そこで思う事がある。
この容疑者の若者。
何か思い違いをしていないか?
SNSで出会った自殺志願者を、巧みに誘って自宅で殺していたらしい。
まさか、コイツ。
『自殺志願者だから、死んでも良い』みたいな事を思ってはいないか?
『死ぬのは人の勝手。俺はそれを手伝っているだけ』
そんな考えをしていたら、それは絶対に間違っている。
俺は人には"死ぬ自由"など無いと思っている。
以前、あるテレビ番組で観たが、『心臓が何故、動いているのか』は、分からないらしい。
自律神経からの"電子信号"が心臓を動かしているらしいが、何故、そんな"信号"が出ているのか、それは今も判然とはしていないらしい。
人は"何故生きている"のか、科学的にはわからない。
それは『生きていたい』という、"心の動き"がそうしていたいから、としか言えないのでは?
ならば、である。
『死にたい』なんて思う感情自体も"生きているから"こそ、思える事ではないか?
人は誰に生かされているのか?
それは、自分自身だ。
他人でも、"神様"などという曖昧なものでは無い。
『死にたい』などと思っていても、人は生きる。"生きる"ようになっている。
つまり、『死にたい』は『生きている』という叫びでは?
『死にたい』などと思っていても、人は生きる。"生きてしまう"のだ。
そこに『死ぬ自由』などがあるか?
人は生きるしかない。
それを勝手に『死にたいなら手伝うよ』など、要らん"お世話"で迷惑な話では?
思い上がりにさえ、感じる。
今から数年前、東日本大震災で息子夫婦、孫を失ったあるお爺さんが、『生きていても仕方ない…』と、自殺を決意して山中に入り、首をくくろうとした。
だが、出来ない。
全く出来ない。
木にロープをかけるが、首にかけられない。
死ぬのが怖くて仕方無くて、どうしても出来ないらしい。
家族を失った人でさえ、自分で自分を殺せない。
絶望を味わっても、死ねない。
"生"にすがっていたいのだ。
それが人間だと、思った。
『何故、生きている?』と思うのは、"生きているから"だ。
だから、生きているなら、『死ぬ自由』がそもそも、無い。
また、生きている事の反対は、"死"ではない。
死とは何か?
それは、"無"ではないか?
寝る前にテレビを観ていて、『そろそろ寝るか?』と、消した時の、あの静けさ。何とも言えない虚無感。
あれが、"無"であり、"死"ではないか?
生の反対は、"何も無い"という事。
荘厳であったり、華麗で憐憫さのあるものではなく、ただ自身が"無くなる"という現象。
死ぬ事では自身を含め、誰も救われないし、助からない。
苦痛は消えない。
死は、救いでは無い。
それが死では?
俺にも、そう思うわけがある。
6年前の、1回目の腫瘍除去手術。
主治医は『無理はしない』と言ってくれていたが、やはり手術直前は怖かった。
俺の人生、これで終わりか?
そう思った。
だから、手術後、意識を取り戻した時には『あぁ、俺は生きている』と実感した。
自分の"存続"が嬉しかった。
生きていることが、嬉しかった。
自分の生にすがり付いていたかった。
それが、人間だ。
生きていることだ。
今もそうだ。
生きているのが、嬉しい。
貧乏でも嬉しい。
他人にバカにされても、生きていたい。
人に迷惑をかけたくはないが、生きていたい。
自分が無くなるなど、考えられない。
『無くなる』自由などない。何故なら『生きている』からだ。
だから、だ。
『自殺を手伝う』などという事が、許せない。
そんなわがまま許されない。
お前にそんな権利も自由は無い。
今も、これからもな。
…ま、俺の勝手な想像だが。