鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

無所属少年⑪ 自由戦争

『何故、他人は俺の"勝手"を許してくれないのか?』

俺がこの"無所属"の時期から今まで、ずっと思っている疑問だ。

俺が小3半ばから小4まで、特定のグループに関わらず過ごした理由は、近所のグループと遊んだ"缶けり"で『俺だけが鬼をやらされている!』と、被害妄想を感じたからだ。

だが、その前から俺はこの"友達グループ"に窮屈さを感じていたのかもしれない。

俺は元来、ワガママな性格だ。
自分の考えややり方、興味の有ることをやりたい。
だが、友達との中では、他人と協力し、協調し、他人の行動、考えを"考慮"しないとうまくいかない。

それがストレスだった。たまらなく嫌だったのだ。

他人の事など何故、考慮しなくてはならない?
『自分が楽しい』という事を一番に考えて何が悪い?
俺には"自由"は無いのか?
常に"他人"を意識して生きていかなくてはいけないのか?

この"他人"を社会や世間と置き換えても良いかもしれない。
俺は常に社会が嫌いで、世間が苦手で、それでも、その中をどうにか喘ぐように生きて来た。

それは、この無所属の頃から始まったのかも?
俺が、"無所属"時代に遊んだ仲間は、皆、俺の勝手を許してくれた。
"やすし"も"サダヒト"も"ゴッチ"、"川ちゃん"、"みっちー"も、
俺が、「今日は遊ばないや…」と言えば、「あっ、そう…」という感じで、俺に"自由"をくれた。
(…単に重要視されていなかっただけ?

だから、逆に俺が誘って断られても気にしなかった。
それくらいの関係が丁度良かった。

そんな俺の"無所属"時代は小5に入り、突然終わる。

その頃、小学校では放課後に"部活動"があり、強制的に参加させられた。
俺は"サッカー部"に入部した。

ちなみに、やすし、みっちーもサッカー部。
川ちゃん、、サダヒトは吹奏楽部。
ゴッチはバスケット部。

…みっちーはすぐに部活動に出なくなり、"幽霊部員"になったが。

俺はそこで出来た友達と仲良くなり、そのグループに入る事になった。

当時の俺には『自由だ』『無所属だ』『窮屈だ』というような感覚はなく、ただサッカー部であった"てる"や"たつみち"、"トキ"らと気が合い、なんとなくそちらに加わっただけだった。

だが、彼らはやはり俺の"自由"を認めてくれなかった。
遊びの誘いを断ると、必ず「何で?」と訊いてきた。
「今日は1人で本でも読みたい気分なんだ」と言っても、「それはおかしいだろ?」という。

何故、俺の"自由"を認めてくれない?
俺が学校や部活動以外で何をしようと、俺の"自由"だろ?

何故、そんなに"友達"を強制してくる。
"仲間"に入れたがる?

その度に思った。
『昔は良かったなぁ…』と。

僅か、一年前の自分を、過ぎ去った日々を懐かしむ老人のように振り返った。

もちろん彼らといて楽しかった事も多い。
河原で秘密基地を作った事。
稲刈りが終わった田んぼでやったサッカー。
その後に駄菓子屋で笑いあった事。
"てる"の家でよくやったファミコン

それは楽しい思い出だ。
だが、同時に、そんな"仲間"たちに遠慮感があったのも事実だ。
『アイツらを傷つけないように…』
『こんな事したら嫌がられるかな?』
『今日は遊びたくないけど、我慢しよう…』

そんな日々にストレスを抱えていた。

だが、逆に俺自身は"仲間"の自由を認めていただろうか?
それは極めて怪しい。

俺が、この遥か先、大学生になった頃。
サークルに入っていた。
生意気な後輩や、俺の言う事に反抗してくる奴が嫌いだった。
"仲間"が自由にするのが頭に来ていた。
『何をしても自由』なはずなのに…。

そんなサークルの"仲間"は、小学生の"俺"と変わらない。

『何をしようが、言おうと、俺の勝手だ』と言っていたのだ。

だが、許せない。
仲間だから、その仲間の自由が認められない。

『人は自分の"自由"は認めて欲しがれが、他人の"自由"は認めたがらない』

そして、
『他人を自分が"コントロール"出来る事に"喜び"を得る』

そういうものなんだ、と今になって思う。

"みっちー"を思い出せば、分かる。

自分が"王様"でいられる場所をしっかり確保して、そこでは威張る。

しかし、そこから離れたら、他人に黙って従う。頭に来ても我慢。
自分の"場所"に戻れば、自由に振る舞えるんだから…。


ひょっとして、と思う。

小5から仲良くなった"てる"や"タツミチ"なども、実は俺に遠慮していたところがあったのかも?
いや、"やすし"や"サダヒト"、"みっちー"も実は俺の"自由"に辟易した時があったのかも?

自分は、自分を"被害者"だと思いがちだ。
同じように他人を傷つけていた事に気付いてないのかもしれない。

と、同時に、これが社会であり、こうした社会の中で俺は生き続けていくしかないのだ。

それは、まさに『互いの"自由"を求めての戦争』ではないか?
世の中は、そんな風に"自由"を主張し合う"自由戦争"を繰り返しているのでは?

誰かに自分の自由を犯されたくないから、他人の自由を否定する。

もしくは、自分の自由が保障される場所を作る。

"自分の自由にならない"他人と折り合いをつけながら、何とか生きるしかない。
そこで、みっちーのように、上手くやるしかないのだ。

他人とあまり関わらない俺でも、こんな仕事をしていたら、多少は他人と関わらざるを得ない。

たまにクライアントの契約条項にわさわざ『こちらの指示に必ず従う事』と明記してくる時がある。

こちらはもちろん黙って従うが、その度に思う。
『この人(組織)も、"他人の自由"を認められないのか、…奪うのか…』と。

確かに、組織として仕事を任せるのに『自分の勝手』でやられたらたまらない。
指示に従わない奴など、認められない。仕事をしたくない。報酬など払いたくないはずだ。
こうした"約束"をするのは、社会として当たり前だし、俺も当然だと思う。
契約ならば従うし、それを飲み込んで契約を交わす。
『自己責任』って奴だ。

だが、その反面。
あまりに俺の自由を"侵害"する奴とは、仕事をしない。
必要以上に"俺の自由"を規制する組織には参加しない。

そんなバカ、誰が一緒に仕事する?

…そう思うかもしれないが、
だから俺は貧乏だ。
仕事を、クライアントを選別し倒している。
だから、収入は上がらない。
当たり前だ。

だが、その『当たり前』が重要だ。
『非常に自分の自由を損なう仕事』でも、報酬が高ければ、我慢してやろうとする。

それは、自分の自由を否定する行為だ。

金は欲しい。
だが、一番に重要なのは、『自分がどうであるか?』ではないか?
自分を否定するような仕事など、こちらから願い下げだ。
金がない?

それが、どうした?
金はいつも優先順位の『二位』だ。『一位』は自分がいかに損なわれずに働けるか、だ。

だから、俺は組織が嫌いだ。
だから、貧乏だ。こんな俺には仕事がない。当たり前だ。

"無所属"の頃、"仲間"を羨ましいと思った事はなかったはずだが、小5になりサッカー部で出来た仲間に俺は簡単に入っていった。

寂しかったのかな?
仲間に期待をしていたのか?

…あの頃は、そこまで自分を、社会を、友達を考えていなかったのだろう。

あれからいろいろあって、俺は変わったのかも。いや、…心の底は変わっていないのかもしれない。
まだ他人と"自由戦争"している。

たぶん、一生、こうしていくんだろうなぁ。

"無所属時代"にはこの他に、
エリートな"カツミ"、
気分屋の"タケ"、
電車オタクの"イツキ"、
などがいて、彼らとも遊んだが、今回は俺の"今"に直結する友達たちを思い出してみた。
今でも関係があるのは、みっちーくらいか?(2年は連絡してないが…)

彼の姿勢、あり方が今の俺を作り、彼らと遊んだ時期が"楽しい思い出"であることは間違いない。