『何故、他人は俺の"勝手"を許してくれないのか?』
俺がこの"無所属"の時期から今まで、ずっと思っている疑問だ。
俺が小3半ばから小4まで、特定のグループに関わらず過ごした理由は、近所のグループと遊んだ"缶けり"で『俺だけが鬼をやらされている!』と、被害妄想を感じたからだ。
だが、その前から俺はこの"友達グループ"に窮屈さを感じていたのかもしれない。
俺は元来、ワガママな性格だ。
自分の考えややり方、興味の有ることをやりたい。
だが、友達との中では、他人と協力し、協調し、他人の行動、考えを"考慮"しないとうまくいかない。
それがストレスだった。たまらなく嫌だったのだ。
他人の事など何故、考慮しなくてはならない?
『自分が楽しい』という事を一番に考えて何が悪い?
俺には"自由"は無いのか?
常に"他人"を意識して生きていかなくてはいけないのか?
この"他人"を社会や世間と置き換えても良いかもしれない。
俺は常に社会が嫌いで、世間が苦手で、それでも、その中をどうにか喘ぐように生きて来た。
それは、この無所属の頃から始まったのかも?
俺が、"無所属"時代に遊んだ仲間は、皆、俺の勝手を許してくれた。
"やすし"も"サダヒト"も"ゴッチ"、"川ちゃん"、"みっちー"も、
俺が、「今日は遊ばないや…」と言えば、「あっ、そう…」という感じで、俺に"自由"をくれた。
(…単に重要視されていなかっただけ?
)
だから、逆に俺が誘って断られても気にしなかった。
それくらいの関係が丁度良かった。
そんな俺の"無所属"時代は小5に入り、突然終わる。
その頃、小学校では放課後に"部活動"があり、強制的に参加させられた。
俺は"サッカー部"に入部した。
ちなみに、やすし、みっちーもサッカー部。
川ちゃん、、サダヒトは吹奏楽部。
ゴッチはバスケット部。
…みっちーはすぐに部活動に出なくなり、"幽霊部員"になったが。
俺はそこで出来た友達と仲良くなり、そのグループに入る事になった。
当時の俺には『自由だ』『無所属だ』『窮屈だ』というような感覚はなく、ただサッカー部であった"てる"や"たつみち"、"トキ"らと気が合い、なんとなくそちらに加わっただけだった。
だが、彼らはやはり俺の"自由"を認めてくれなかった。
遊びの誘いを断ると、必ず「何で?」と訊いてきた。
「今日は1人で本でも読みたい気分なんだ」と言っても、「それはおかしいだろ?」という。
何故、俺の"自由"を認めてくれない?
俺が学校や部活動以外で何をしようと、俺の"自由"だろ?
何故、そんなに"友達"を強制してくる。
"仲間"に入れたがる?
その度に思った。
『昔は良かったなぁ…』と。
僅か、一年前の自分を、過ぎ去った日々を懐かしむ老人のように振り返った。
もちろん彼らといて楽しかった事も多い。
河原で秘密基地を作った事。
稲刈りが終わった田んぼでやったサッカー。
その後に駄菓子屋で笑いあった事。
"てる"の家でよくやったファミコン。
それは楽しい思い出だ。
だが、同時に、そんな"仲間"たちに遠慮感があったのも事実だ。
『アイツらを傷つけないように…』
『こんな事したら嫌がられるかな?』
『今日は遊びたくないけど、我慢しよう…』
そんな日々にストレスを抱えていた。
だが、逆に俺自身は"仲間"の自由を認めていただろうか?
それは極めて怪しい。
俺が、この遥か先、大学生になった頃。
サークルに入っていた。
生意気な後輩や、俺の言う事に反抗してくる奴が嫌いだった。
"仲間"が自由にするのが頭に来ていた。
『何をしても自由』なはずなのに…。
そんなサークルの"仲間"は、小学生の"俺"と変わらない。
『何をしようが、言おうと、俺の勝手だ』と言っていたのだ。
だが、許せない。
仲間だから、その仲間の自由が認められない。
『人は自分の"自由"は認めて欲しがれが、他人の"自由"は認めたがらない』
そして、
『他人を自分が"コントロール"出来る事に"喜び"を得る』
そういうものなんだ、と今になって思う。
"みっちー"を思い出せば、分かる。
自分が"王様"でいられる場所をしっかり確保して、そこでは威張る。
しかし、そこから離れたら、他人に黙って従う。頭に来ても我慢。
自分の"場所"に戻れば、自由に振る舞えるんだから…。
ひょっとして、と思う。
小5から仲良くなった"てる"や"タツミチ"なども、実は俺に遠慮していたところがあったのかも?
いや、"やすし"や"サダヒト"、"みっちー"も実は俺の"自由"に辟易した時があったのかも?
自分は、自分を"被害者"だと思いがちだ。
同じように他人を傷つけていた事に気付いてないのかもしれない。
と、同時に、これが社会であり、こうした社会の中で俺は生き続けていくしかないのだ。
それは、まさに『互いの"自由"を求めての戦争』ではないか?
世の中は、そんな風に"自由"を主張し合う"自由戦争"を繰り返しているのでは?
誰かに自分の自由を犯されたくないから、他人の自由を否定する。
もしくは、自分の自由が保障される場所を作る。
"自分の自由にならない"他人と折り合いをつけながら、何とか生きるしかない。
そこで、みっちーのように、上手くやるしかないのだ。
他人とあまり関わらない俺でも、こんな仕事をしていたら、多少は他人と関わらざるを得ない。
たまにクライアントの契約条項にわさわざ『こちらの指示に必ず従う事』と明記してくる時がある。
こちらはもちろん黙って従うが、その度に思う。
『この人(組織)も、"他人の自由"を認められないのか、…奪うのか…』と。
確かに、組織として仕事を任せるのに『自分の勝手』でやられたらたまらない。
指示に従わない奴など、認められない。仕事をしたくない。報酬など払いたくないはずだ。
こうした"約束"をするのは、社会として当たり前だし、俺も当然だと思う。
契約ならば従うし、それを飲み込んで契約を交わす。
『自己責任』って奴だ。
だが、その反面。
あまりに俺の自由を"侵害"する奴とは、仕事をしない。
必要以上に"俺の自由"を規制する組織には参加しない。
そんなバカ、誰が一緒に仕事する?
…そう思うかもしれないが、
だから俺は貧乏だ。
仕事を、クライアントを選別し倒している。
だから、収入は上がらない。
当たり前だ。
だが、その『当たり前』が重要だ。
『非常に自分の自由を損なう仕事』でも、報酬が高ければ、我慢してやろうとする。
それは、自分の自由を否定する行為だ。
金は欲しい。
だが、一番に重要なのは、『自分がどうであるか?』ではないか?
自分を否定するような仕事など、こちらから願い下げだ。
金がない?
それが、どうした?
金はいつも優先順位の『二位』だ。『一位』は自分がいかに損なわれずに働けるか、だ。
だから、俺は組織が嫌いだ。
だから、貧乏だ。こんな俺には仕事がない。当たり前だ。
"無所属"の頃、"仲間"を羨ましいと思った事はなかったはずだが、小5になりサッカー部で出来た仲間に俺は簡単に入っていった。
寂しかったのかな?
仲間に期待をしていたのか?
…あの頃は、そこまで自分を、社会を、友達を考えていなかったのだろう。
あれからいろいろあって、俺は変わったのかも。いや、…心の底は変わっていないのかもしれない。
まだ他人と"自由戦争"している。
たぶん、一生、こうしていくんだろうなぁ。
"無所属時代"にはこの他に、
エリートな"カツミ"、
気分屋の"タケ"、
電車オタクの"イツキ"、
などがいて、彼らとも遊んだが、今回は俺の"今"に直結する友達たちを思い出してみた。
今でも関係があるのは、みっちーくらいか?(2年は連絡してないが…)
彼の姿勢、あり方が今の俺を作り、彼らと遊んだ時期が"楽しい思い出"であることは間違いない。