先日、貴乃花親方のインタビューの中で、『礼儀、礼節』という言葉が出て思い出す事がある。
『笑っていいとも!』の最終回で、タモリさんが言ったことだ。
番組の最後。
タモリさんはコメントで、
「私は昔から不遜…、つまり"生意気"なんですね。そんな私に"綺麗な服"を着させてくれたこの番組を…」
と、言っていた。
『不遜』
その意味は、「人を見下した態度」らしい。
タモリさんを見ると、そんな印象は微塵もない。礼儀正しい感じさえある。
誰にでも気軽に接し、誰にでも親しげに話しかける姿は『見下している』とは思えない。
だが、その飄々した態度が、タモリさん以上の芸能界の"先輩"からは不遜に映ったのではないか?
タモリさんはそれが自然なのだが、その自然が他者から見ると、こちらを馬鹿にしているように見えるに違いない。
何にも頼らず、自立自尊している(実際はそうでもないが…)かのように見える人は、何故か嫌われる。
「生意気だ!」
「反抗的だ!」
「気に入らない!」
だが、決してそんなその人に意識は無い。
確かに他人の意見や支持にはすぐには従わないが、その他人を攻撃するような意志はない。
にも関わらず、そんな人は『不遜』と見なされ、嫌われ、疎外されてしまう。
(タモリさんはそんな中の稀有な"成功者"か?)
俺もどちらかと言えば、不遜に思われる人間だと、思う。
今まで散々、色んな場所で嫌われてきたしな。
…ま、俺の場合、性格にかなり難があるかな?
こっちとしては、別に組織や上司、グループを攻撃したいわけじゃない。
ただ、俺は俺の"勝手"にしていたいのだ。
アンタの"勝手"も認めるから、ならば、俺の"勝手"も認めて欲しい。
だが、そうならない。
他人はいつも自身への忠誠や臣従を強要する。
あたかもそれが、"最善策"かのように。
そして従わない人間を"不遜"と罵る。
何故、人は自分の"勝手(自由)"を認めて欲しがるのに、他人の"勝手(自由)"を認めたがらないのだろう?
俺が子供の頃から感じている疑問だ。
そして、我々のいる"社会"とは何なんだろうか?
自分以外の他人の"勝手"を許したがらない人間がいる、この世界。
それが我々の住む"社会"ではないか、と思っている。
今年で40。
"社会人"というヤツを18年程経験した俺が考える"社会"をもう少し分りやすく言えば、
『「うるせぇ! 馬鹿野郎」が言えるか、言えないか』という関係性の中にある。
とも思う。
(分かりにくい?)
人間は元来自由だ。
無意味に他人を傷つけたり、他人の利益を一方的に損なわせてはいけないが、基本、何をしようと、何を言おうと、何を思おうと、"勝手"(自由)なはずだ。
自身が責任を取れる範囲で、自由。
ならば誰もが、他人に何か言われたら「うるせぇ! 馬鹿野郎」と返しても構わないはずだ。
もちろん、言われた他人は良い気持ちはしない。
言った相手に怒る。
またはその人間と関係を断つかもしれない。
それは逆を言えば、相手が怒る事や関係性に重大な影響をもたらす事を"覚悟"しておけば、『うるせぇ! 馬鹿野郎』と誰にでも言える、という事ではないか?
繰り返すが、人は自由だ。
それは憲法でも保障されている。
よく考えて欲しい。
他人に『うるせぇ! 馬鹿野郎』と言うことが、公的に刑罰の対象になるか?
過去には皇族などに対する『不敬罪』というものがあったが、今は無い。
頭に来たら、誰でも他人に『うるせぇ! 馬鹿野郎』が言えるのだ。
しかし、実際にはなかなか言えたものではない。
また、自分が"言うのは良いが"、他人から"言われる"のは絶対に嫌なはずだ。
ここで登場するのが、『礼儀、礼節』だ。
『他人と接する時は行儀良くしましょう』
『他人には丁寧な言葉使いをしましょう』
『他人は敬いましょう』
我々は、幼い頃からこんな風に教え込まれている。
特に年長者、先輩、上司には慇懃な姿勢を取ることが"美徳"にされている。
よく考えたらおかしい。
別に年上や先輩、会社の上司に失礼な言葉を発しても、それは罪では無い。
『社長無礼罪』『先輩不敬罪』などという罪状は今の日本には存在しないのだ。
ただ、そんなヤツはその組織、グループには居られない。確実に嫌われる。怒られる。
無礼というだけで、罪になる。
別に"無礼"は罪ではない。
無いだけに、『罪にしたくなる』のだ。
学校で先生や先輩にタメ口を聞いたら、怒られる。
会社で社長に文句を言えば、クビにされてしまう。
仲間内で誰かとモメたら、仲間外れにされる。
どれも犯罪ではないが、何故か、"罰せられた"かのような感じになる。
先に書いた『不遜』を感じる相手がいた、とすると、人はその人間を何か罰したがるのだ。
その態度を改めさせたくなる。
自分への無礼な態度(不遜)をやめさせたい。
ここで多くの人間が作りたがるのが、『小さなグループ』だ。
そして、そこの"リーダー"に成りたがる。
その座にいる限り、自分は絶対的に"上"であり支配者、グループ内の他人は"下"であり、被支配層だ。
自分に『うるせぇ! 馬鹿野郎』などと言う"自由"は許さない。
何故なら、そこは、自分だけの自分の為の"小さなグループ"だからだ。
他人の"自由"を制限する"自由"が自分にはある。
それが"社会"だと思う。
そんな"場所(グループ)"を作り、そこに加わらない人間など、最初から関係を持たない。
自分の"場所"に頭を下げて入ってくる者のみを仲間にする。
そうすれば、自分は絶対に傷つかない。
中小企業の社長、会社内の中間管理職、サークルのリーダー、ママ友グループのリーダー何かに多いタイプの人種だ。
彼ら(彼女ら)には、本来、公的な制限を課すような力は無い。
だから、自分が作ったグループの仲間に『礼儀、礼節』を持ち出す。
"社長だから、無礼な物言いしたら許さない。"
"課長だから、無礼な態度は許さない。"
"サークルの部長だから、言葉使いには気を付けろ。"
"このママ友グループは私がリーダー(?)なんだから、私に従いなさい。"
無礼な奴を、『無礼である』という"おかしな理由"で追放できるのだ。
馬鹿馬鹿しい。
俺はそんな『小さなグループ』のリーダーを嫌という程見てきた。
皆、取るに足らない馬鹿野郎だ。
また、俺自身もそんな"愚かなリーダー"だった事もあったがもしれない。
馬鹿野郎だ。
嫌な奴ばかりの"社会"だ。
頭に来る奴らばかりであり、俺自身が他人からみれば、『頭に来るヤツ』なのだろう。『癪に触るヤツ』に違いない。
だから、『不遜』で生きている。
どこかの社長だろうが、お偉いさんだろうかわ、俺は『不遜』な態度を崩さない。
嫌われ、疎外されても俺はこの生き方を変えないつもりだ。
…と、言っても現在一緒に働いている連中や取引先には最低限の『礼儀』は通している(つもり)。
一応、皆さんは俺に暖かい態度を取ってくれてている。
だが、内心はわからない。
腹の底では、(何なんだ! コイツ!)、と憤っているかもしれない。
それならば、俺との関係性を断てば良い(と、俺は思っている)。
誰と関係性を持つか?
それもまた人間の"勝手"だ。
もし俺が、(この人と関係を断ちたく無い!)、と思えば、断たないようにするだろう。不遜な態度を改めるだろう。
それだけの事だ。
(許さないなら、それで良い)
俺としては、『不遜』なのが俺であり、そこから関係性が始まると思っている。
礼儀など何の意味があるのか?
確かに礼儀や礼節は、社会を生きやすくするツールだ。
俺も初対面の人間、特に仕事上の人間には礼儀良く接しているつもりだ。
だが、それをどう思うかは、その人による。
こちらが『礼を尽くした』と思っても『無礼なヤツだ!』と思うかもしれない。
キリが無い。
ならば、"不遜(こちらを見下している)"、と見られた方が良くないか?
「礼儀礼儀」とうるさい奴は近寄ってこないし、『うるせぇ! 馬鹿野郎』も双方が言い合うなら別に悪口にならない気がする。
嫌な奴とは付き合わない。
そして、いつも『うるせぇ! 馬鹿野郎』と言い合える人間が周りにいるだろうか?
『礼儀、礼節を尽くして…』と、貴乃花親方は言う。
たぶん、相撲界って『不遜』な人間が居にくい世界なんだろうな…。