大学生の頃、バスで学校まで通っていた。
ある日、下校中に座席で本を読んでいると、いきなりその本を奪われた。
「この野郎!」とカッとなったが、奪ったのは俺の友人だった。
「…何、読んでいるんだ?」
その時に俺が読んでいたのは『カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」』というノンフィクションだった。
その友人は、何故かこれに驚いた。
「お前、何でこんな本読んでいるのだ? 文学部だろ? 意味が無いだろ? 経営とかに興味あるのか?」
確かに俺は文学部であった。
また、経営などには微塵も興味が無い。
その本を手にしたのは、偶然であった。
スーパー、『ダイエー』を一代で興隆させた中内功氏を描いた重厚なノンフィクションであり、1度読み始めると止まらないくらいに面白かった。(特に戦後のヤミ市から身を起こしていく頃の話が…)
「本、好きなのか? 読書家だなぁ」
もっと言えば、読書は嫌いではない。俺は"読書家"というほどは読まない(年に10冊くらいか?)
本当に、たまたまそのノンフィクションを読んでいたのだ。
誰にでもそんな事があるのではないか?
だが、その友人はそんな俺の心情が全く理解出来ないらしい。
学校の授業にも関係なく、好きでもない経営者のノンフィクションを読む、など友人の理解の範疇を越えていたらしい。
俺に「何で? 何で?」を連発し、「そんな本を読むなんて、おかしい」とまで言い放った。
俺としたら、いきなり本を奪った非礼を詫びて欲しかったが…。
『そんな本、面白いの?』とか『キモい』と言われるくらいならまだわかる(それも頭に来るが…)。
だが、重厚ノンフィクションを読む事自体を『おかしい』と言う事は、それ自体がおかしく無いか?
そんなのは、それこそ『他人の勝手』である。
いきなり本を奪われた苛立ちもあり、俺は「うるさい! 俺の勝手だろ?」と言った。
それでも彼は得心がいかないようで、ずっと「おかしい、おかしい」と言っていた。
そして、遠回しに、俺にその本を読むのを止めさせようとした。
何故か?
たぶんだが、その友人の感覚の中で、おおよそ自分に無関係の硬派のノンフィクション本などを読む同世代の存在が"認識"できなかったのではないか?
『認識できない』から『おかしい』のであり、『おかしい』から『自分の感覚に従うべき』なのだ。
その友人はそういう事をよく言う奴だった。
別の日。仲間内で『明日、バッティングセンターに行こう』ということになった。
すると、みんなが解散してから、その友人は俺の元に来た。
そして二人っきりになったのを見越していきなり、
「俺、バッティングセンター、好きじゃないんだよなー」
と言い出した。
即座に俺はこの友人が明日のバッティングセンターには参加しない気だと思った。
「ふ~ん。じゃ、明日は来ないの?」
と俺は訊いた。
友人はそれには答えず、バッティングセンターがいかに危険か、そして楽しくはならないかを俺に論じた。
だが、俺は明日バッティングセンターの集まりに行く気でいた。
俺は再度その友人に「…じゃ、明日は来ないんだな?」と言うと、とんでもない事を返した。
「…いや、みんなで俺が活躍できる事をしようや」
「はあ?」と言って俺は驚いた。
別に俺自身バッティングに自信があるわけでは無い。好きなわけでもない。ただの"遊び"だ。
好き嫌いなどあまり関係ない。
元来、遊びなどそんなものではないか?
また、仲間内の交流もそんなものであり、誰かが何かを提案し、やりたかったらやる、嫌ならやらない、である。
他人の勝手だ。
それを堂々と『自分が目立てる事だけしたい』と言える神経。
他人の意思など考慮せず、『他人は自分に従うべきだ』と言うような言い方。
コイツの頭はどうなっているのか?
俺は小学生の頃の友人"ミッチー"を思い出した。(『無所属少年』参照)
あれはまだ小学生だから可愛いげもある。だが、この友人は20才越えの"大人"である。
俺は馬鹿馬鹿しくて、「お前、何様だよ…」と笑ってやった。
結局、当日にその友人は現れず、他の仲間で比較的楽しくバッティングセンターで遊んだ。
今から思えば、その友人は"カリスマ"に成りたかったのかも知れない、と思う。
俺は"カリスマ"と言われる人間には二種類あると思う。
1つは、他者を大きく引き離す技術や技能を持つタイプ。
2つ目は、そんなに技術技能は突出していないが、何故か人望があるタイプ
1つ目は、いわゆる"孤高のカリスマ"なんて言われる人間で、技術者や芸術家に多い。
2つ目は世間に多分にいる人間で、会社などの組織で威を張るタイプ。
また、歴史上の人物にも多い気がする。
今、大河ドラマでやっている『西郷隆盛』なんて正にこのタイプではないか?
個人と対して能力はないが、度量が広く、様々な人や物事を受け止めるから、人望が集まり易い、頼られがち。
故に組織の"リーダー"にされやすい。
根拠が無いが、その言葉が何だか"真を得ている"ように思われがちだ。
俺の読んでいた『カリスマ』の中内功氏はまさに後者のタイプに思えた。
戦後のヤミ市を知恵と度胸で切り抜け、勢いで独自の流通網を確立。
それはあたかも"特別な技術"に見えるが、少しの知恵と度胸があれば(実際にはなかなか出ないが…)、可能であり、中内功氏はそれで自らと会社を大きく見せ、人望を集めたように思えた。
その友人は、要するに
『俺ほどの"カリスマ"がこう思っているのだから、みんな従わなくてはおかしい』
と、言いたかったのだろう。
だが、彼にはそこまでの人望が皆無だった。
こういう人間が作り易いのが、"小さなコミュニティー"であり、そこの"ボス"に収まる事で満足する。
俺の一番嫌いなタイプの人間だ。
だが、そんな俺自身もそんなコミュニティーの"ボス"っぽい事をしていたことがある。
しかし、社会に出たらそんなもの全く意味がない。
(だからこそ、こういう奴等は"小さなグループ"を作りだかる。➡西郷隆盛の鹿児島私学校…)
カリスマにはなりたい。
カリスマと呼ばれたい。
理由は無いが、カリスマと崇められたい。
そんな愚かな希望が社会を見えなくする。
『人間は結局、字の如く、"人の間(あいだ)"でしか生きられない』というのが、俺の人生観だ。
他人は嫌い。
他人は自分の思った通りにしていて欲しい。
…それは永遠に叶わない希望だ。
他人は他人の事など考慮しない。いつも勝手に生きて、勝手に行動する。
貴方のように…。
その中で、生きていかなければならない。何をやるのも俺(貴方)の勝手だ。
だから、好きにさせてくれ。
好きにしていいから。
俺の感覚を押し付けないから、アンタの感覚を押し付けないでくれ。
俺は誰にも指示しないから(なるべく…)、アンタも俺に差図するな。
だが、人が生きていくには他人と激しくぶつからなければならない。
軋轢は避けられない。
だから、いつも徹底的にぶつかる。
俺は俺の『生きたいように』生きる。
誰かと、争う事になったら?
やり方はどうあれ、折れない。流されない。そうすることが正しいからだ。
そうして世の中はできている。
それに気づくのにだいぶかかったなぁ。