鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

新社会人へ① 社会=プロレス

以前、勤めていた会社(ブラック企業)の部長は、よく俺達社員に「…社会人として」と怒る人だった。

俺(ら)の言動が『社会人としてありえない』と、声高に非難していた。

馬鹿馬鹿しい話である。

そもそも『社会人』とは何か?
『社会人』という資格者証明がこの世にあるのか?

…そんなもんは無い!

もしもあれば、不倫する芸能人やパワハラする議員は警察に捕まるはずだ。
彼らには『社会的な制裁』を受けるだけだ。
例の部長も、『…社会人として』と喚きながら、部下に異常な残業を強いたり、休日を取り上げたり、会議で怒鳴り散らしたり、と随分"社会人として"相応しく無い事をしていた。

なので俺は「それは社会人としとおかしい」と言う人間が嫌いだし、信用しない。
俺から言わせれば「社会人は元々おかしい」のだ。(俺もね)
つまり、『社会人』は個人、組織、環境でその定義や仕様が変わる、かなり微妙なものなのだ。
それを楯に自分の正当性を主張するのは、愚かである。

大学を卒業して"社会人"になって18年。
今、俺はその愚かさをしみじみと感じている。
(…もっと早く気づいていたら…)と思わなくもない。
また、"社会人"が嫌いだか、俺自身、既にその"社会人"である、と自覚している。

人は、人であるが故に、人と関わる以上、"社会"からは逃れられない。
皆、嫌でも『社会人』なのだ。

もうすぐ4月。
今年も若者が大勢、新社会人として社会に飛び出す。

そこで、この生きにくく、偏りだらけの"社会"で待ち受ける様々な社会人に被害に遭わないように、(もしくは俺のようにならないように)俺の大好きなプロレスを例にして解説してみたい。

プロレスは実に"社会的"な"スポーツ"だ。
勿論、レスリングとプロレスは全く違う。
どちらが素晴らしいか?、と問われたらその答えに詰まる。
レスリングはレスリングの素晴らしさがある。
そしてプロレスにはプロレスの素晴らしさがある。

しかし、どちらが「社会的か?」と問われたら、間違いなく後者だ。
プロレスはその存在自体が"社会"だ。

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もう20年来のプロレスファンの俺だが、他人に「プロレス、好きなんですよね」と言うと、必ず

「プロレスって、八百長でしょ?」

と、侮蔑の混じった言葉を投げ掛けられる。
確かにプロレスの"勝敗"はあらかじめ決まっているらしい。

プロレスは『真剣勝負』では無い。

プロレスラーは戦う前から勝ち負けが決まった"結末"に向かって、試合と言う名の"演技"をする、…らしい。

『らしい』と書くのは、そういうモノだと暴露する本が近年たくさん刊行されている。
また、実際にプロレスラーから『お芝居だよ』と聞いた事が無いからだ。
こんな本で読んだ知識だ。

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だが、こういう本が出る前から、いや、初めて見た時からプロレスが『真剣勝負』では無いことは分かっていた。

人をロープに振っても、あんなに上手くは返ってこない。
一度掛けた関節技は抜けない。
3カウント、ギリギリで肩を上げたり、相手の攻撃を避けずに受けたり…。

そんな不可思議さを疑問に思わないはずがない。
理にかなわない事だらけである。

そして、プロレスを中傷する人間は必ずこの点を突く。

かつて、『プロレスとは低俗な人たちが熱狂するスポーツだ』と言ったお偉いさんがいた。

その時(プロレス熱が高い頃)に俺がそんな侮蔑に対して抗弁したのは、

「嫌なら見るな」

である。

その通りだろう。
『プロレスは八百長だ、お芝居だ、くだらない』なら見るな。
別にプロレスの方から『見てください』と言って来ているわけでは無い。
プロレス興行が近所に来ても行かなければ良い話であり、
テレビにプロレス中継が流れていたら、チャンネルを変えたら良い。

それだけだ。

俺がプロレスが好きになった理由は、それが"誰も触れられていないスポーツ"だからのと、学校では存在しないスポーツだったからだ。
(前に詳しく書いたな…)

三沢のダイガードライバーに歓喜し、小橋の握りこぶしに沸き立ち、聖鬼軍の人智を越えた攻めに戦慄した。
蝶野の罵声に憧れ、武藤の技に魅せられ、橋本のDDTを真似した。
そして、高田延彦に心酔した。

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プロレスの勝敗は決まっている。真剣勝負では無い。
俺が(これはリアルファイト✊だ!)と歓喜したUWFも"プロレス"であった。
(初めてビデオセラーで借りた時に判明…)

だが、プロレスを嫌いにはならない。
プロレスが真剣勝負ではない?
ならば、それで良いではないか?

90年代終わりから、日本には"総合格闘技ブーム"(真剣勝負のリアルファイト)が来た。

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事実、それらはプロレスを"駆逐"するかのように広がった。(俺もそれに乗ったクチだが…)

それでもプロレスは無くならなかった。
今、またブームの兆しが来ている。(親日だけ?)

もし、今、プロレスを「お芝居だ」「クダらない」「低俗」と非難するなら、そうした総合格闘技(RIZIN、UFC)だげを見れば良い。
そこには、真剣で、リアルで、殺伐とした勝負の世界がある。

だが、それは楽しいか?

貴方を興奮させてくれるか?

答えはイエスでも、ノーでも無いだろう。
楽しいかどうかは、観客個人の感想。

リアル(真剣)とは、そういうモノだ。
『誰かの為に戦いを見せる』のでは無い。『自分の為に戦う』のだ。

だから、周りが興奮しようがしまいが構わない。そこにウェイトを置いていない。

プロレスは違う。
常に我々"観客"を興奮させる事がプロレスラーの頭にある。
実際の勝敗など実は余り関係無い。
要は、見ている側が楽しいか、楽しくないか、しかない。
こちらを興奮させるために試合をする。
だから、楽しい。
(たまに楽しくないのもあるが…)

リングで殴り合い、投げ飛ばし合い、怒鳴り合うレスラーたちは心から相手を憎んではいない。
それが観客を楽しませる方法だと分かっている。
レスラーは互いに協力しあい、プロレスをする。
ロープに降られたらひっくり返って来て、関節技をかけたらわざと外す。
(たぶんね)

これって、まさに我々が生きている"社会"ではないか?

分かっているが、あえてそれをやる。

不倫したら叩かれる。でも、不倫する。

欲という"リアル"を満たすため、不倫という"プロレス"に走る。
その不倫(プロレス)が生活(リアル)に近いほど燃える。

だって、その方が興奮するから。

本当は嫌な代議士センセイに媚び従う。
その本音(リアル)を隠し、センセイに従う(プロレス)。

その代議士センセイがパワハラ(リアル)を暴露されて、狂暴な本心を隠して謝罪する(プロレス)。

本音(リアル)を隠し、"タテマエ"や役割を演じる(プロレス)。

プロレス=社会。

皆、誰かに嘘(プロレス)をつき、"不都合な真実"(真剣勝負)をしない。
(俺はたまにするよ…)

そんな貴方が「プロレスなんて…」と糾弾できるのか?

プロレスを卑下するのは、即ち、自身を卑下するのに等しい。
社会に生きる我々は、"社会"というリングに上がるレスラーである。

だから、「社会人として…」と非難してくる人間に"真実"は無い。
それは『その人がいる社会』の"真実"でしかなく、本来の真実を追うなら、そこに従う必要性など全く無いのだ。

だが、従ってしまう。

俺自身、そうな馬鹿な事を言っていた部長に従っていた。

だから、である。

そんな俺のようにならないように(今現在も…)、社会を"プロレス"であらわしていきたい。