鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

新社会人へ⑧ "善意"固め

数年前、ダーツ🎯が流行っていた頃、友人から強烈にそのダーツを薦められた。

数人とネットカフェのダーツコーナーで遊んだ後、その友人から「どう? ダーツって楽しいでしょ?」と聞かれた。
確かに悪くは無い。
しかし、趣味の釣りのように、のめり込むほどの興味は湧かなかった。

「…う~ん。なかなか上手くいかないなぁ」

と、暗に興味無いという体を醸し出す答えをした。
すると、その友人は「大丈夫。これから練習すれば上手くなるからさ」などといい始め、俺がダーツをやることを勝手に決め、しかも高額なダーツの矢(弾?)を「タダであげる」と言した。
俺は慌てた。
まだ、そこまでダーツにハマっていない。高価な矢などもらっても続ける可能性が低い。
俺は「いらないよ👋😞」と言うのだが、友人は勝手に次の『練習日』を決め始めた。

「たぶんハマらないからやめとくよ」

そう告げると、友人は激怒し始めた。
『ダーツは今、最もカッコいい遊びだ』
『そんなに難しくなく、誰でもできる』
『遊ぶ場所も多いんだ』
ダーツをすることが、いかに"お得"かを力説した。
その先には『この俺がここまで言ってんのに、お前はやらないのか?』という"上から目線"が感じられた。
これに俺が頭に来た。
その日、初めてダーツをしたが、確かに悪くはなかった。
しかし、他人から強制されてやる趣味などやる気にならない。

その一件で友人とは疎遠になった。

違う日にその友人から遊びに誘われた。
俺は浜松に来ていたプロレス興行を見に行く気持ちになっていた。
「その日、予定があるだよね」
「何?」
「ああ、プロレス観に行くんだよね」
「…はぁ?、プロレス?」
「…ああ、そうだよ。…一緒に行く? まだ当日チケット余ってそうだし」
「何言ってんだ? プロレスなんか観に行くわけないじゃん」
「いやいや。俺にダーツを強制したのは誰だよ?」
「…ダーツはいいだろ?」

これで俺とその友人は完全に袂を分ける事になった。
友人の中で、自分がハマっているダーツは、俺が好きなプロレス拠りも"下"なのだろう。

だが、俺の中では逆だ。
ダーツよりプロレスが断然上だ。

人それぞれ『基準』みたいなものを持っている。また、好みも違う。
俺としては、誰の基準も否定しないが、誰にも俺の基準を否定して欲しくない。

『何で人は自分の勝手を押し付けてくるのに、他人の勝手を認めたがらないのか?』

俺が子供の頃から疑問に思っている事だ。
友人の言い分はきっと『ここで自分とダーツをするのはとても良いことだ』という"善意"のつもりなのだろう。
だが、俺にはそれが『俺の言うことを聞け』と言う"わがまま"にしか聞こえない。

俺は20年来のプロレスオタクだが、他人にファンになる事を強制した事は無い。
プロレスが好きになろうが、嫌いになろうがその人は変わらない。
勝手なのだ。

だが、周りは違う。
自分の趣味、嗜好を押し付けて来る。
頼んでもいないのに、自分の好みを見せて、「お前もやれ」と言う。

それも、"善意"という名の元に。

何が善意だ。
こっちは良い迷惑だ。
好きでもないダーツをやる気にはならない。
別にプロレスを好きになってくれ、などとは言わない。
それが悪い事とも思わない。
だから、アンタの"主観"を押し付けてくるなよ。

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アンタは善意でも、こちらには悪意にしか感じない。
いくらそれが楽しく、有益だとしてもやりたくないんだよ。
やるか、やらないかは俺の勝手だろ?

何でそれを認めてくれない?
自分の勝手ばかり主張する?

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だが、これが会社の上司(当時)からならどうだったか?

たぶんだが、「ダーツ🎯、面白そうっすね」何て言いながら、ダーツに興じていた可能性は高い。

何故なら、上司だからだ。
仕事を円滑に廻すなら、俺は本心を隠してダーツをやるだろう。

別に悪い事だとは思わない。
それが"社会"だからだ。
ダーツが好きな上司にそれを薦められて、それをやる。それに満足する上司がいるなら、何の問題も無い。
『ダーツが好き、嫌いに』ではなく、それをやるか、どうかが課題なのだ。

例えば、貴方が酒を飲むのが苦手だったとしよう。そんな時に上司や取引先から「今日、酒でも飲みに行かない?」と誘われたらどうする?

「酒、好きじゃないんで…」と断るか?
(こういう奴が最近多いらしいが)

そんな事を言う奴はおそらく出世しないし、取引先と契約できない。

彼らが求めているのは、『一緒に酒を飲む楽しさ』ではなく、『お前はオレにどういう感情を持っているのか?』という"答え"だ。

他人は他人の言動、態度から自身の"位置"を計りたがる。

だが、人の言動や態度など、立場でどのようにも変わる。
嫌いな物を『好きだ』と言い、好きな事を『嫌いだ』と言う。
相手に対して"従順"で"善良"な人間を演じる。

みんな、そうだろう?

本心を隠して、相手の前で"従順"を擬態する。

それって、まさに"プロレス"では?

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人間は社会というリングで"プロレス"をする。
社会性とは、『いかに他人にプロレスするか?』という度合いではないのか?

本当は顔も見たくない相手と話し、嫌な事を「喜んで」と引き受ける。
社会性がそれをさせている。

一度、社会から離れたら、もう"プロレス"はしない。シュート(本心)だ。
嫌いな物は『嫌い』だ。好きな事しかやりたくない。
"プロレス"と"シュート"を使い分けている。

先ほどの『ダーツ』の話をこの"法則"に沿って解説すれば、
俺から見て、友人から誘われた『ダーツ』に対して、本心(シュート)から興味が湧かない。だから拒否した。

ところが、友人は「ダーツは楽しい」、「この俺がここまで誘ってんのに、何故やらない?」と、"社会性"(プロレス)を仕掛けてきた。
からした、仕事(プロレス)以外の"リング"(時間)に来るものには、当時シュート(真剣勝負)で答える。
本心で話すし、やりたくないことはやらない
当たり前の話なのだ。

だから「はぁ? プロレス?」とプロレスを小馬鹿にしてきた本人が一番"プロレス"を求めているのという事になる。

Δ如悒丱奪ドロップという技は、出し手と受け手がいないと成立しない』と書いたが、まさにこれがそうである。

「ダーツをやろう」という出し手(友人)と、それを「いいねぇ」と快諾する受け手(俺)がいて、初めて関係性か成り立つ。

だが、この場合、受け手のはずの俺には"プロレス"をする気がないので、「…やめとくよ」という"シュート"の言葉が出たのだ。

PRIDEやRIZINなどのMMAのリングでプロレス技が出ないように、組織や会社から離れた場所では、"バックドロップ"は決まらないのだ。

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たぶんその友人からしたら、俺は彼にとって、"プロレスをしてくれる"相手であったのだろう。
俺にそんな気持ちは無い。
だから、シュートをする。時には汚い"サミング"(反則技)だって辞さない。

もっと言えば、社会人の多くはこの"法則"を理解している。
他人が自分の意志に賛同するのは、擬態であり、見せかけかもしれない。

ここで繰り出すのが、『善意』という"必殺技"だ。

「これは貴方にとって、とても良いことだ」
「私は善意から貴方を誘っている」
「貴方が良い方向に進むように考えている」

…と言う感じ。
つまり、自分のやっていること、考えたは正しく、善良であり、だから貴方もそうするべきだ、というのだ。

人は自分が正しい事をしていると、思いたい生き物だ。
善意からの行動、勧誘。それに裏打ちされているから他人に薦め、参加を促せる。

だって、善意なんだもの。

俺はこれを『善意固め』と呼んでいる。

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『善意から…』と考えたら、自分のしていることは全て"正義"である。
それを拒否したり、批判するのはすべからく"悪"である。

そんな"独善的"な『善意固め』で俺達を締め上げてくる。
迷惑な話だ。


俺は、新社会人に何も、「プロレスをしろ!」とか「シュートを貫け!」と言いたいのではない。

これから貴方が飛び込む"社会"というものはそうした"プロレス"を仕掛けてくる世界だという事を言っておきたい。
この『善意固め』を仕掛けてくるのだ。

「せっかく誘ってやってんのに…」と人は言う。
だが、一つの物事にどういう感覚、対応、関わり、距離感を取ろうがそれは個人の勝手だ。
誘われたからと言って、必ずしもその方向を向くとは限らない。

俺が他人にプロレスを薦めないのは、この為だ。(上記の友人の時は敢えてやった)
いくら口で「プロレス、面白い」と言っても本心はわからない。
ひょっとして俺を慮って言ってくれているのかもしれない。
人の本心など絶対にわからない。

善意から示していても、その善意が他人にも『同じくらいの善意』になるとは限らないからだ。

確かに「こうすれば、きっと良くなる」のかもしれないが、そんなことは他人が気にする事ではない。
一緒にやりたいだけなら、最初っからそう言えば良い。
"善意"という、正統性を主張して従わせようとするな。

だが、それでも人は『善意固め』を繰り出してくる。

そんな相手には"シュート"(真剣勝負)を見せてやれ。
「あんまり興味無いんだよね」
「…なんか、嫌だ」
「楽しくねぇな…」

そんなシュート(本心)を出してやれ。

そして、時には"プロレス"してやれ。
「楽しいっすね」
「これ、ハマりそう」
「楽しいっす」

そんな言葉に人は満足する。擬態かもしれないと、分かりながら満足してしまう。

だが、間違っても"善意"を建前にするな。

貴方の善意が、他人の利益になるとは限らない。