俺が20代の頃から考えている疑問だ。
もちろん、俺自身も思い込みをする。
僅かな情報から、他人や物事を『きっとそうだ』と思い込む。
勝手に確証を持ち、そう断じる。
それが違っていたりして恥ずかしい思いをする。
馬鹿馬鹿しい話だが、そんな人は俺以外にも多いはずた。
勝手に思い込んで、そしてそれが事実ではないとすると、激しく失望する。
思い込んだ本人が悪いのに、思い込まさせられたような気がする。
騙されたような感覚になり、「この、裏切り者!」と言う。
別に裏切ったわけではなく、勝手に思い込んだのだけなのに…。
人は思い込む。
必ず思い込む。
何故なのか?
俺はその理由を、自身の人生経験から複数に見当を付けている。
その一つが、『楽だから』である。
人間は元来、自分自身が大好きなナルシステックな生き物である。
だから、自分の事だけを考えていたい。
しかし、社会生活の中で他者という存在を考えずには生きていけない。
他者との関係の中で社会があり、その社会を生きるしかないのであれば、どうしても、その他者を認識しなくてはならない。
そこで、自分以外の他者を、"〇〇だ"と思い込む。
そういう風に他者を"意味付け"するのだ。
『優しい〇〇くん』
『巨人好きな〇〇さん』
『△△と付き合っている〇〇』
そんな感じで思い込み、覚えるのだ。
一度そういう風に覚えたなら、それ以上ソイツについてあれこれと考える必要がなくなり、何かあれば、その"意味付け"からその他者とコミュニケーションを取れば良い。
だから人は思い込む。
他者を認識することが面倒で、本来は自分の事しか考えでいたくない。
だから、安易に他者を"〇〇だ"と決めつける。
そうした方が、楽なのだ。
…正確に言うのなら、『人は思い込みたいから、思い込む』のである。
しかし、何度も書いているが、人間が何をしようと、何を考えようと、どんな言動を取ろうと自由である。
優しい〇〇くんは、優しくないかもしれない。
巨人好きな〇〇さんは、実は阪神ファンだった。
△△と付き合っていた〇〇は、実は今は⬜⬜と付き合っていた。
…そんな事はよくあることだ。
人の行動に制限はなく、趣味思考は自由だ。
思い込みが外れたならば、もう一度、その他者を認識し直さないといけない。
その行為に激しくストレスを感じでしまう。
それが許せない人間がいる。
『他者は自分の思った通りでなければ、ならない』
自分の"思い込み"から逸脱する人間は"悪"であり、"裏切り者"だ。
だから、前田日明にとってUWF仲間は自身の忠実な後輩であり、自分の言うことには"絶対服従"である、と思い込んでいた。
それが前田にとっては"絆"とさえ思っていたのだろう。
だが、実際そんな絆はなかった。
UWFのレスラーにとって、前田はうるさい先輩であり、出来れば関わりたく無い存在になってしまったのではないか?
だから、前田は一人でリングスを立ち上げるしかなくなった。
思い込みは、人を縛る。
そして、人を怒らせてしまう。
プロレスがそうだ。
プロレスの結末は決まっている。レスラーは決まっている勝敗に向かって、"協力"して試合を見せて、観客の興奮を煽る。
プロレスがそういうものである、と分かると興味を喪い、離れていく人がいる。
俺の父がそうだった。
父は戦後初期、力道山亡き後の日本プロレスをよく見ていたらしいが、吉村道明(古)が毎試合、決まった時間になると回転海老固めをする事に気が付き、プロレスを見るのを止めた。
格闘技思考の強かったUWF(プロレス)でも、そうだった。
UWFか格闘技ではなく、プロレスだと分かると、ファンをやめる人や、嫌悪して批判する人がいた。
(板垣恵介さんなど)
だが、おかしい話である。
プロレスは(UWFも)、その試合を一目見たら、"結末が決まっている"とまでは思わないが、"何かおかしい"と思うはずだ。
これも何度も書くが、
一度決まった関節技を外すことは不可能だ。
人間をロープに降っても綺麗に裏返ってはこない。
カウント2.9でフォールを跳ね返すのなら、もっと早く返している。
トペを食らうレスラーは明らかに相手が跳ぶのを待っている。
これらを見ていながら、プロレスが真剣勝負ではと判明したからと言って、「八百長!」「下らん!」「騙された!」と思うのはおかしくないか?
今まで"八百長っぽい"のに楽しく観ていただろうに…。
何故、プロレスが"真剣勝負"ではないとファンは怒るのか?
それはファンにとって、プロレスは真剣勝負でなくてはならず、真剣勝負であるからこそ、それを前提として"プロレス"を楽しむ事ができ、プロレスが真剣勝負だから、『そのプロレスのファンである』自分自身を認識しておけるのだ。
プロレスが真剣勝負ではない、となると、それを応援する自分をもう一度認識し直さないといけない。
真剣勝負ではないプロレスを応援する理由の正当さと、ファンである理由を探さないといけない。
「騙された」と言えば、信じてしまった責任はプロレス側にある。
…と、自己弁護できる。
そして、『もう一度、ファンである理由を探す』のは、物凄く面倒な事である。
「どうせ八百長なんでしょ?」という批判にいちいち抗弁しないと、プロレスのファンでいる理由がなく、理由を確立しない限り、その批判は自分の価値を下げてしまう(と思える)からだ。
『プロレスは真剣勝負ではない。』
それが分かっても、俺は特にプロレスを嫌いにならなかった。
俺はプロレスを見始めた頃や、UWF分裂後のUインターにハマっていた頃も
、(ん?、もしかして…)と思うような場面はいくらでもあった。
それでも別に良かった。
『俺にはプロレスしかなかった』から、とも言えるが、
それよりも、それまで生きてきた中で(まだ高校生だが…)、『人や物事の見方は一通りでは無い』と理解していたからだと思う。
自分が、勝手に動いたり考えでたり、話したりするように、
自分以外の物事や人間も、基本的に勝手であり、自由に動く。
プロレスが真剣勝負であろうと、なかろうとそれは『プロレスの勝手』であり、ファンである自分はそんなプロレスを『見るか、見ないか』のどちらかであり、プロレスは『面白いか、面白くないか』で判断すれば良いのだ。
…一時、プロレスを離れた(2000年代前半)のは、プロレスよりも総合格闘技(PRIDE)なんかが面白かったからだ。
…結局、プロレスに戻ってきたが。
思い込んではいけない。
人は純粋であれば、あるほど思い込む。
それは素晴らしい事かもしれない。
だが、そこに(そうでなければならない)という独り善がりは無いだろうか?
自分以外の全ては自由であり、アナタの思ってもいないように動き、思っていない言葉を放つ。
想像外の真実を含んでいるかも?
それが社会だ。それが人間だ。
他人を、物事を、自分の価値や基準で考えるな。予想するな。
支配できると思うな。
その"思い込み"はいつか必ず自分に向かって攻撃をしてくる。
"裏切り者"などはいない。
誰もアナタと"約束"などしていないのだから。
いつでも"裏返って"くるぞ。