俺はプロレスラーが大好きだ。
嫌いなプロレスラーを挙げた方が早いかも?
(大仁田だ…)
だが、「尊敬するプロレスラーは?」と問われたら、一も二もなく挙げられる。
"関節技の鬼"藤原喜明だ。
俺が藤原を尊敬するのは、昔、ある雑誌のインタビュー記事を見たからだ。
藤原には教え子が多い。
船木誠勝、鈴木みのる、石川雄規、ライガー、高田延彦、バトラーツの面々…。
前田日明や佐山サトル(初代タイガーマスク)も、教え子と言えるのかも?
インタビュアーが、
「藤原さん、プロレス界にお弟子さんがたくさんいて、みんなご活躍されていて、良いですね」
と言った。だが、藤原は素っ気ない態度である。
藤「弟子? …さぁ、弟子かな?」
イ「え?」
藤「アイツらが俺を師匠とか、『俺は藤原喜明の弟子だ!』と思っていたら、俺は師匠だよ。…別に何にも思ってないなら、それまでさ。弟子か、そうでないかはアイツらが勝手に決めることさ」
なかなか言える言葉ではない。
人は誰からも尊敬されて、有り難がられたい人種である。
過去に少しでも世話してやったのなら、「今の俺をがあるのは、あの人のおかげだ」「俺の尊敬する師匠はあの人だ」なんて他人から言われたいし、見られたい。
しかし、だ。
他人が自分に抱く感情は様々だ。
よく指導し、目を掛けてやっても、それを好意的捉え、感謝したりするかは、その人間次第である。
だから、『自分のコイツの師匠だ』とか『固い絆で結ばれた仲間だ』と思っていたのに、あっさり裏切らりたりする。
第二次UWFの崩壊直後、前田は一人になった。
後輩全員が、前田の元を去ったのである。
前田にからすれば、
「あんなに面倒みてやってやったやろ!」
「後輩やろ!」
「裏切り者!」
と言いたくなるのだろう。
人は、誰かと連携したい、共通の意識をもちたい、そして他人を"支配したい"と思う。
思うからこそ、その他人に『これは、お前の為にやっている』と"恩"を着せたがる。
そうする事で、自分が支配する理由を作りだかるのた。
だが、恩を着せられた方はどうか?
いくら『お前の為に…』と言われても、それを"当たり前"くらいに感じていたら"恩"などとは思わない。
だから、弟子だ、後輩だ、仲間だ、絆だ、などと主張されても迷惑な話である。
前田には、『絆、信頼』があると思っていた後輩レスラー(高田ら)たちは、そんなもの微塵も感じていなかったのだ。
だから、前田は怒った。
「この裏切り者!」と言いたいわけだ。
後輩レスラー達からしたら、前田に対しては嫌悪しかないから、『裏切り者』と呼ばれても響かない。
前田は何によって怒っているのか、と考えたら、それは自分の"面倒見の良さ"であり、"内包力"であり、"優しいさ"ゆえである。
後輩を信じ、後輩の為に何かをすれば、するほど、前田は嫌われ、邪険にされ、"裏切られ"てしまう。
悲しい話である。
藤原の『弟子たと思うなら…』発言はこうした(裏切られた!)という感情から、解放されている。
『俺を師匠だと思えば、勝手に思えば良い』という発言の裏には、
『思えないなら、それで良いよ』という意志がある。
器量の大きさを感じる。
(他人を支配したい)、(尊敬されたい)と思っているはずの人間からしたら、こんな風に言っても、腹の底は違うのではないか?
…と疑いたくなる。
ただ、本当にそういう考えなら、藤原喜明が世話した人間から酷い事をされても、『裏切られた!』とは思わない。
"裏切り"の感情から解放されている、と言える。
人は裏切る。
(アイツは俺には逆らえない)
(たぶん、こんな奴だ)
(こんな事を考えているに違いない)
藤原のように思っていたら、そんな"思い込み"が外れても何も感じない。
いや、こんな思い込み自体をしていない。
だから、きっと人生が楽なんだろな。
爽やかさ、とも言える。
普段はインタビューではふざけた事しか言わず、バラエティー番組では芸人を痛め続ける藤原だが、彼の心の中には、こんな爽快さがある。
だから、尊敬している。
そんな藤原は、何故か今でも猪木を尊敬視している。
(会談の際など、先に到着し、起立不動で猪木の来訪を待つ)
かつて、猪木を裏切り、UWFに移籍したのに…。
新日本プロレスという組織と、アントニオ猪木という人間は、藤原の中では別らしい。
つまり、『俺の弟子か否かは勝手に決めろ。…だが、俺は猪木さんの"弟子"だ』と言うわけだ。
確かに猪木は素晴らしいレスラーだ。
人間的には『?』が付く事が多いが、"レスラー"猪木は一流のレスラーであった。
そんな猪木を信奉する藤原ではあるが、猪木に対して見せるその態度を、後輩に強制しない。
社会に出ると、大した事もしていないのに、「あの時は世話してやったのに…」と恩を売るバカがたくさんいる。
こちらからすれば、"当たり前"の事なのに、向こうからすれば、"恩"であり、いつまでも自身を尊敬していて欲しい、のである。
だから齟齬が生まれ、遺恨ができる。
「忘恩漢!」
「知るか!」
そんな不毛な争いが起きてしまう。
こんな争い、いつまでも"平行線"である。
藤原はこの"下らない争い"から解放されている。
『下らない』と思いながら、俺自身、やはり過去に世話した人間にはそこに恩義を感じていて欲しいと思ってしまうからだ。
俺もまた、『他人から尊敬されたい!』と願う下らない人間でしかない。
だから、俺は藤原喜明を尊敬するのだ。