鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

プロレス心理学⑩ 多様性 その2『1995年のインディペンデント』

俺がプロレスを見始めた中学生の頃(1993年あたり)、日本マット界は多団体時代だった。

新日、全日、WAR、FMW、みちのく、大日、IWAジャパン…。

俺の好きなUWFは既に3派(Uインター、リングス、藤原組)に分裂していた。
(のちに藤原からパンクラスバトラーツが枝分かれ…)

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女子プロレス団体も含めたら、12以上はあったかな?

プロレスの"真実"に薄々気が付きながらも、俺は不思議だった。

何故、プロレス団体はこんなに別れているのか?
皆、まとめてやれば良いのに…。

同じ事(プロレス)をやっているのに、なんでこんなにも別れているのか?

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それは大人になるにつれ、理解出来た。

1つは、独自性の主張と確立だ。

プロレスには様々な種類がある。
新日のようなストロングスタイル。
全日のような、極限の激しさ(四天王)やコミカル(ファミリー軍団)。
みちのくのようなルチャリブレ
FMWのようなデスマッチ。
そしてUインターやリングスのような真剣勝負な格闘技(と初めは思っていた)

それぞれには、それぞれの個性や主義(イデオロギー)の独自性がある。
だから、違うイデオロギーのレスラーとは一緒にはできない。

だから、多団体化している。

もう1つは、『俺が1番でいたい!』という子供染みた意識からだ。

人は『他人を支配したい』と思っている。
他人の支配下にいるなど、真っ平御免だ。

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大勢のレスラーのいる団体は資金が潤沢、待遇もそれなりに良いだろう。
だが、自分の他に1番はいる。自分に指示をしてくる気に入らない他人、支配してくる他人もいる。

繰り返し書くが、プロレスの勝敗はあらかじめ決まっている。
実力の世界ではない。(観客を興奮させる力を"実力"とも言えるが…)

何が指示を分かつのか?

スタイルのよさであったり、肉体的な強弱を離れたアピールであったり、観客を煽るコメント力だったりする。

そんな実力以外で査定される"序列"に納得できるだろうか?

『アイツが何で団体からあんなに評価されてんだ? 大した実力も無いのに。それなら…』

他人を否定したいから、自ら新しい"評価基準"を作る。
自分が作った基準・団体だから、自分が何よりも優先されて、自分の意志が1番に反映される。

かつて、作家の夢枕獏氏は、「100人レスラーがいたら、100の考え、100の団体がある」と言っていた。

それはつまり、『プロレスは肉体的な実力などで序列が決まっていないから、俺は誰の支配下にも入らん!』と言うことでは?

だから、多団体化しているのだ。

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多団体化したプロレス団体の中で、規模の小さなものを『インディー団体』(インディペンデント="独立"の意)と呼んだ。
※対して、大規模な団体を『メジャー団体』と呼ぶ。

インディー団体は規模も小さく、観客動員も低い。資金もないから、首都圏でしか興行を打たない。所属レスラーが20人未満だったりする。

そのくせ、団体内にはベルトがあり、チャンピオンがいる。

『〇〇認定世界ベビー級チャンピオン』などと言っても、たかだか20人程のレスラーの中から、肉体的"実力以外"で勝ったレスラーであり、それで『世界』を冠するなどおかしいのだが、そのベルトもまたプロレスを観る"舞台装置"であり、八百長だろうが、実力不足だろうが、その団体では、チャンピオンなのである。

例の"ブラック企業"にいた頃、そこには"山師"のような野心を持っている人が多かった。
皆、この会社から独立して、起業したがっていた。

確かにパワハラが横行し、ロクに休みをくれないブラック企業(当時はそんな言葉はなかったが…)だったが、一応は全国展開している会社であり、何でそこから離れたいのか、わならなかった。

だが、今にしてみれば、そんな"独立思考"が分からなくもない。

プロレスが多団体だったように、我々一般的な人間もまた『誰かの支配下』を嫌う。

資金が乏しくても、社員が少くても、明日が見えなくても、誰かの支配下は絶対に嫌なのだ。

何度書くが、
人は自由だ。何をしようと、何をやろうと、考えようと、決めようと、公序良俗や法律に触れない範囲ならば何でもして良い。
自由だ。俺の勝手だ。

だから、他人の"勝手"になるなど了承できないのだ。

だから、自分の自由になる"世界"を求める。
そこにいる限り、その人は自由であり、誰にもその自由を損害されない。
自分が1番で、自分が王様だ。

自由とは多様性である。
他人が自由であれば、そこで様々な考えが生まれ、様々な形に広がる。
一つの物事が多様化する事で、我々を楽しませてくれる。

プロレスも様々に多様化している(た)。メジャー団体からインディー団体まで、多様にいろいろな主義、形式のプロレス団体がある。
どれもがプロレスに間違いなく、どの団体にも独自性とストーリーがある。

プロレスは独自性を持った"文化"だ。

多様性の無い文化が広がることがなく、独自性の無い文化は人を惹き付けない。

他人の自由を認めたら、その文化は広がる。『プロレスは面白い!』とするなら、多様性が生まれ、様々な形に広がって行くのだ。

それを嫌がるのであれば、それは"独り善がり"になる。
「新日しかプロレスと認めない!」のであれば、そこでしか"面白さ"は見出だせなくなる。

自分の自由を確保したくて独立することは、他人の自由を広げることに他ならない。

だが、人は他人の自由を認めたがらない。
物事の見方、感じ方は自分と同じなければならない。他人の"自由"など、自分の"自由"を阻害するだけである。

他人の自由を否定しつつ、自分の独立は認めてもらいたい。
都合の良い話だが、それが人間だ。

俺はUインターにハマっていた頃、(このプロレスは真剣勝負であり、これが1番だ)と信じていた。

それ以外のプロレス団体は存在する必要がない。

俺はUインターを応援することで、(他の奴とは違うんだ!)と独立していたかったのだ。UWFの流れを汲む団体は、すべからく"真剣勝負"のプロレス団体ではなくてはならない。

しかしながら、そんなUインターはどうも"プロレス臭い"、"真剣勝負っぽくない"。

ならば、考えを改めて、(そういう"プロレス"であり、それが好きだ!)としないと、自身の正統性が成り立たなかった。

もし真剣勝負にこだるのであれば、当時に流行っていたMMA(総合格闘技)を応援すれば良いのだ。
そして、MMAはプロレスに比べると、動きがなく、退屈た。U系プロレス(Uインター、リングスなど)を観ていて、そういう格闘技の動作には分かっていても、プロレスの技の爽快感や派手さには敵わない。

プロレスを認めたら、UWFを否定することになる。多様性を見せるプロレスを"アリ"とすることになる。

独立していたい(=真剣勝負)事を取り、他を否定するか?

他の多様性を認め、独自性(真剣勝負っぽいプロレス)をその中に加えて、肯定するか?

高校生だった頃(1995年あたり)の俺は、そんな2沢に迫られていた。

そして、わりとあっさりと後者を選んだ。
メジャーからインディー団体まで、すべて"プロレス"である、としたら俺は気軽にそれを楽しめた。

総合格闘技
あぁ、あのプロレスに似ているヤツね?

真剣勝負が見たい?
だったら、街中の喧嘩でも見ておけば?

そんな気持ちだった。
(それも、2000年の"1.4佐々木vs川田戦"で変わるのだが…)

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なぜ、俺は多様性を認めたのか?

それはプロレス自体が好きだったからだ。
また、多様性云々の前に"プロレス"というジャンル自体は認めていたからだ。

多様性を認めたら、それは楽しくなる。
他人は他人。
好きなことをすれば良い。

だから、自分も好きやる。自由だ。勝手だ。何が悪い。
自分の自由を阻止するな。アンタ(他人)がアンタの自由を主張するなら、もう一緒にはいられない。
どちらかが独立して、勝手にやらしてもらう。
文句があるか?
俺は、"自由"だ。それは俺の勝手だ!

人は多様性を認めたがらない。
自分が自由でありたいから。
インディペンデント(=独立)とは、良く言えば自由だが、他方から見たらワガママでしかない。

世界中にある中小企業、零細企業、個人はすべてにおいて、こうした気質を有している(俺もね…)。

そんな人たちに対し、「他人が何をしようとも勝手っすよね?」と問えば、何故か皆、一様に、

「ええ、勝手です。好きにすれば良いのでは?」

と答えるだろう。

"その1"の河本君(仮名)と同じだ。

その裏には、(俺に"被害"を及ぼすなよ。)、(俺の"自由"を阻害するなよ)という思いがある。

他人の勝手(自由)を侵害せずに、上手く自分の勝手(自由)を確保する。

それが、社会だ。
社会での生き方だと思う。多様化する社会は色んな人間の自由で、多様化している。

それを忘れてはいけない。

俺やアナタがいる社会、集団、組織は、その中だけの"自由"がある。"勝手"が罷り通っているに過ぎない。

えっ?
分かってたいるって?

いや、分かっていない。分かっていないから、人は自分の自由を主張して、インディペンデント(=独立)したがるんだ。