鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

プロレス心理学30 好きにさせてもらうよ

"自己ユーティリティの高い"人間との関わりをどうするのか?

ラストは、その対処法の話に移っていきたい。

自尊心(プライド)の高い人間と、自己ユーティリティの高い人間は、『似ているようで違う』という話は前に書いた。

自尊心の高い人間は、周囲の人間を見下しているが、それなりの立場を与えられたら、自尊心の為にそれを全うする。

対して、自己ユーティリティの高い人間は、そういう立場になりたがらない。そうなることを"損"と考え、"やらされている"という被害者意識が高く、誰かに押し付け、自分は絶対に傷付かない場所にいて、"黒幕"になりたがる。
何かあれば、逃げの一手。

まことに恥ずかしく、嫌な人種である。

ならば、どのように区別したら良いのか?

俺は初対面の他人(クライアントなど)に会い、契約の話になると必ず、「それはそちらにお任せします」とある部分で他人の"自由"を受け入れる発見者をあえてするようにしている。

そうすると、わずかながら戸惑いの表情を浮かべる人間がいる。

何故か?

『自分の自由は認めてほしいが、他人の自由は認めたくない』のが、自己ユーティリティの高い人間の特徴だ。
他人が「そこはあなたの指示に従います」と自由を"譲渡してくる"のは嬉しいのではないか?

ところが、違うだ。

「あなたの自由に任せます」は同時に、
『何かあればあなたが責任を取ってください。だってあなたに従ったんだから』と言うニュアンスを与えるのだ。

責任。

これほど、自己ユーティリティの高い人間が嫌う事は無い。
基本的に他人と自分に"差など無い"としているから、それは

『何で、アイツの"尻拭い"を俺(私)がしなければならないんだ?』

という疑問に変わる。
自分が、自分と同等である他人の責任を被るなど全く認められない。
たがら俺の『お任せします』が、"責任の擦り付け"にしか思えない。

この戸惑いを俺は見逃さない。

次に、言えたなら、なのだが、
『それはこちら(自分)の自由にしてはくれませんか?』と提案する。

これは自己ユーティリティの高い人間からすれば、『俺が何かしたら責任を取ってくれ。でも俺の自由を認はめろ…』と聞こえ、こんな勝手な話など有り得ないのだ。

ここまで言うと、自己ユーティリティの高い人間は露骨に嫌な顔をする。

そして、俺の中で"警報"が鳴る。

『この人間とは関わってはならない!』

もちろん、俺の一方的な感覚なので、決して相手には言わないが、こういう人間には近付かないように、もしくはあえて相手に不快な事を言い、関わってこないようにしている。(勘違いも多いが…)

プロレスにおいて、『最強は身体的、格闘技的な技術で極められる』ものでは無い、
とも以前、書いた。

プロレスは格闘技だ。
身体的、格闘技的な技術を競わない格闘技など、"格闘技"と呼べるのか?

呼べる、と俺は思う。

そもそも『プロレスってスポーツなのか?』と言う疑問もあると思うが(俺は思うが…)、プロレスは格闘技である。

プロレスの結末は決まっている。
レスラーは決められた勝敗に向かい、相手が怪我をしないように配慮しながら、技を繰り出し、観客を興奮させ、時には言葉で煽る。

レスラーの"対戦相手"はレスラーでは無く、自らを見つめる観客である。
観客を興奮させ、また次回のチケット🎫を買わせる事、罵声や声援を引き出し、満足させて帰らせた者が"勝者"である。

身体的優位性、格闘技的な技術の高さなどは関係無い。
それはプロレスを"魅せる"特徴の一つでしかない。
"格闘技"を"魅せて"いるのだ。

格闘技を魅せている以上、プロレスは格闘技である。

"ショー"だ?

確かに"格闘技ショー"とも言えるのだが、プロレスは勝敗をあらかじめ決めている事をオープンにはしていない。

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ならば、断言はできない。
俺の言う『プロレスの結末は……』は、あくまで『そういう話を聞くが』とか、『暴露本が出ている』から、そう思える(確かだと思うが)というに過ぎない。

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信じるか、信じないかは、最終的には、見ている我々次第なのだ。


『本当の"格闘技"が見たい』
『本当のレスラーの実力を知りたい』

たが、レスラーの本来の"実力"などは知ったことではない。

それを知りたくば、MMA(総合格闘技)の試合を見れば良い。

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別に『プロレスは格闘技だから、見てはならない』などという法律はない。

MMAは100%真剣勝負だ。

俺は、試合中の"興奮度"ではプロレスの方が面白いと思うが、こっちの方が面白いと言う人間がいても、それはその人の自由だ。

たが、何を観ても、何に声援を送ろうとも、何を信じようとも、それが自身の興奮を引き起こしてくれるかは、わからない。

『都市伝説』ではないが、『あなた次第です』であり、誰かに責任を擦り付けられるものではない。

プロレスを見るとは、そういう"リスク"(責任)もある。

『プロレスなんて八百長だろ?』

昔から何百回と言われてきた言葉である。
確かにプロレスのリングで行われている"格闘技"は明らかに相手の協力無しでは有り得ない場面がある。

でも、俺はプロレスに興奮する。
MMAにも、興奮する。
高校の頃にハマっていた"U系プロレス"にも興奮した。

レスラーは、俺の興奮を引き出し、感情を揺さぶってくれる"神"のような存在だ。

信じているし、尊敬もするが、その分、プロレスが他者からどのように見られているかも十分に理解している。

『うるせぇ、馬鹿野郎!』なのだが、それもまた他人の"自由"だ。

自由には必ず責任がつきまとう。
当たり前だ。
『責任など取りたくない』と言う者に自由はないと思う。常に誰かの意図の中にいるしかなく、誰かの意図を慮り生きているしかないのだ。

猪木から新日のマッチメイク権を委託された蝶野ではないが、

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『好きにさせてもらうよ!』である。