横浜市内のホテルに泊まり、一週間治療を受けた(地獄)。
そのホテルからクリニックまでの間を専属のタクシーで往復するのだが、その横浜市近郊にはたくさんのビルが立ち並んでいた。
「…さすが横浜。高いビルが多いですねぇ」
付き添いで来た俺の両親がタクシーの運転手にそう言うと、運転手は思いがけない言葉を返した。
「…あぁ、これ? これほとんど新興宗教の持ちビルですよ」
それを聞いて、俺はかなり驚いた。
タクシーの窓から見える横浜のビルの大半が新興宗教の持ち物であるという。
世の中にはこんなにも新興宗教があり、それはこんなに儲かるのか?
最近、オウム真理教の麻原彰晃の死刑が執行された。
なんでこんな奴を信じるのか?、と疑問に思うのだが、今も日本にはオウムの信者(後継団体)がいる。
人の信じる、信じたい心は計り知れない。
前も書いたが、ただのガラス玉が、新興宗教になると『不思議な力を秘めた水晶』に代わり、何十万円で取引されている。
俺はオカルト話が嫌いではないが、こうした類いの商売が大嫌いだ。
ガラスは、ガラス。
お札、は紙。
人は、どこまで行っても人だ。
馬鹿馬鹿しい。何も、誰も救ってはくれない。
だが、単なるガラスを『不思議な水晶』と信じれば、その人にとってはそれになり、
こちらから見たら、下らないオッサンも、信じたい人からは"神様"にしかみえない。
いくらこちらが、その無益を説いても、信じたいものを信じた人にはなかなか受け入れられない。
まさに"信者"だ。
"神様"は信者によく言う。
「信じる者は救われる」
俺はこの言葉が嫌いだ。
それは、
『信じる者は救われる』
↓
『私(教祖)を信じていたら、大丈夫』
↓
『だから、信じない奴らはダメ』
↓
『私(教祖)を信じない人間を排除しろ!』
…と言っているように思えるのだ。
他人を排除しる口実に解釈されないか?
自分を信じろ、というのなら、
『信じ無い者も救ってみろ!』と言いたい。
自分を信じない人間を嫌う。
自分だけを信じていたら、みんな幸せになり、他の人間を信じてはいけない。不幸になる。
それは俺の嫌う"小さなグループのリーダー"と同じだ。
何度も書いているが、人間は自由だ。
何を言っても、何を考えても、何を信じようとも自由だ。
別に自分の"教え"を信じなくても自由なはずだ。
何故それを規制する?
何故自身を信じない人間は不幸になると言える?
『信じない者でも救われる可能性はあるよ』では無いのか?
実際、世界には様々な宗教があり、様々なな考え方がある。人間の数だけある。
そのどれもが、"幸せ"を追求している。
幸福の追求手段は一つではないはずだ。
ならば、勝手にすれば良いではないか?
自分を信じるも、信じないも自由だ。
ビルを建てなくても、それは追求できる。
だが、新興宗教は信じる者に強烈に執着する。その財産などをこちらに譲る事を『幸せになる為』と称して行わせる。
それが、あの横浜のビル群なのだ。
そんな新興宗教に家庭を壊された芸能人の話を最近見たな。
何故、新興宗教は金を欲するのか?
人を幸せにしたかったら、無料でやれや。
そして、何故、信者は金を出してしまうのか?
金があることが幸せとは限らないが、その幸せの"元"である金を払って幸せになれるのか?
そこに矛盾は無いか?
冷静になれば分かるだろうに、何故、財産を投げ出す?
信者とは、便利なものだ。
ひたすらに自分(教祖)を信じてくれて、おかしな点も都合よく解釈し、自分だけを味方して、信者以外を勝手に攻撃してくれる。また、自分の為にお金💰も無償でくれたりする。
"信者"という言葉に、俺はプロレスを感じる。
かつて、プロレスファンには多く信者がいた。
猪木信者。
馬場信者。
ネットも無く、MMAもそれほど盛んでは無く、プロレスの"カラクリ"が今ほど広まっていない時代。
プロレスラーは、宗教の"幸福"の代わりに、"最強"を見せる事で信者を獲得して行った。
『プロレスは猪木が最強。猪木だけ見ていれば良いんだ』
『馬場は最強。猪木? 馬場の前では霞んでいるよ。馬場が異種格闘技戦したら、最強さ』
…そんな事を本気で言っていた時代があった(らしい)。
やがて、前田日明や高田延彦などのUWFが現れると、彼にも信者が出来た。
(俺は、元高田信者だな)
プロレスの"最強"は、身体的、格闘技術の強弱ではない。
だから、いくら彼らを『最強だ!』と崇めても、そこに真の"最強"は無く、それを示してくれたのが、グレイシーに代表する現代MMAの"日本上陸"だろう。
だが、誰かを"最強"と見ると、他のレスラーはやはり霞んで見えた。
そのレスラーが最強であり、そう思っていたら、信者は幸福であった。
高田延彦のUインターが(パンクラス以外のU系団体)が"プロレス"だと薄々気付いていたが、俺は"10.9"まで、高田を、Uインターを信じていた。
最強だと、異種格闘技戦では負けない存在だと信じていた。
その事は今も後悔はない。
この"UWF幻想"崩壊後も、俺はプロレスを見続けた。
プロレスを嫌いにはならなかった。
(次第にMMAブームに呑み込まれていったが…)
信者だった。
だから思う。
信者とは誠に便利な存在だ。自分に無償の愛や好意を与えてくれて、自分の事を一番に考えてくれる。
これは、堪らないだろうな。
だから、"自己ユーティリティの高い人間"は信者を求める。
自身を"特別な人間"と持ち上げてくれる信者を作りたがる。
自分勝手に言動する他人が、自分の信者に変われば、その言動を自分が規制出来る。
自分が他人を支配できるのだ。
しかも、信者は何をされても自分を信じてくれる。
それって、子分? 奴隷?
そうではない。
ここがポイントだが、
信者は"自分の意思"で、信者になっているのだ。
あくまでこちらは信者になることを"強制はしていない"。
子分でも奴隷でもない。
だから、信者の行う事は基本的に彼らの"自己責任"である。
これも、堪らないだろうな。
他人の責任を背負うことを最も嫌う"自己ユーティリティの高い人間"たちは、自分の意思で信者になった人間の責任を被る必要が無い。(形式的には)
信者が勝手にやっただけだ。
そう言い逃れができる。
恐ろしい"腰抜けっぷり"だが、それが新興宗教や小さなグループの実状だろう。
何かを信じる行為は、尊い行為なのかもしれない。
自分の事を一番に考えたがる人間にとって、他人を一番にすることは耐え難い苦痛ではないか?
だが、それさえ厭わない気持ちを人は持ってしまう。
『この人に付いていけば、きっと大丈夫』
とよく考えたら根拠の無い信念に陥る。
そんなわけば無いのだ。
誰もあなたを助けてはくれない。
誰もあなたを顧みない。
誰もあなたの窮状を知らない。
あなたが溺れそうな時、誰かが"浮き輪"をくれるだろうか?
誰か助けてはくれない。
そう思って生きていくべきだ。
甘い言葉には意図があり、
憧れには裏がある。
そう思っていて、自分の窮状になれば、まずは自分の力でそこから脱してみろ。
自己ユーティリティの高い人間は、すぐに"団結"や"協力"を口にする。
それは都合の良い支配や隷属への"誘い"だ。
え?
他人を疑い過ぎだ?
これくらいで十分だ。
まずは自分の力で挑め。そこから全てが始まるんだ。
ここまで長々と"自己ユーティリティ"の話を書いてきたが、俺が言いたいのは要するに、
誰にも頼るな。
という事だ。
…正確には『初めは』だが。
他人に頼りたくなる瞬間は誰にもある。
もちろん俺にも。
実際、"信者"にならなくても助けてくれる人間はいるかも?
しかし、他人に助け続けられる人生は、その内に他人に依存するようになる。
依存すると、人はこう思う。
『私は"助けられる"存在だ』
だが、そんな事は無い。人間は平等であり、誰が誰を助けようと自由だ。
だが、自分を誰かが"助けてくれる"と思い込んでいる人間は、どうしたら自身が"助けられる存在"になれるかを模索する。
それは、『他人は自分の為に動いてくれ』なければならず、
つまり、『自分の自由は認めて欲しいが、他人の自由を認めたくない』ということであり、
"自己ユーティリティの高い人間"がまた増える事に違いない。
だから、他人を信じてはいけない。
頼んではいけない。
あなたの人生は、あなたのもので、いかなる苦しみもあなた自身が自力で乗り越える事が重要だ。
たまには他人の援助も受けよう。
だが、あくまで自身が"メイン"だ。
あなたが主役だ。
"優しい言葉"をかけてくれる"教祖様"はあなたの人生の"脇役"でしかないのだ。
脇役は、脇に控えておけ。
苦難も、苦痛も、喜びも、楽しさも、まずはあなたが"信じる"んだ。