鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

プロレス心理学37 居場所とself affirmation(自己肯定)

ブラック企業を辞めて地元浜松に戻って来た俺は、金は無いがそれなりに自由を感じていた。
前(34)に書いたように、無職で明日が見えない生活だったが、それは「仕事をしていないからだ!」と分かりきっていた。
(開き直り?)

なので、当初の半年間、様々なアルバイトをした。
本屋でレジ打ち。
地図の作成。
スーパーの品出し。
倉庫のピッキング
お好み焼き屋での手伝い。
宅配寿司の運び屋。
(いろいろやったなぁ…)

その中で分かってきた事があった。

それは"仕事(定職)が無い"ということは社会で極めて低く見られるという事だ。

どの職場に行っても俺は"冴えないフリーター"くらいにしか見られない。ぞんざいに扱われた。
前職(ブラック企業)を辞めたのは、自分の意思であり、誰のせいでも無い。

だが、『定職が無い』、『正社員ではない』と言うだけで、ここまで蔑まれるか?
俺は社会に怒りを抱えていた。
誰かに認めてもらいたい。
誰がに自分を肯定して欲しい。
だから、自分自身で自分を正当化していた。

(俺は悪くない)
(俺は自由だ)
(こんな俺がリアルなんだ)

それは心理学的にいうと『self affirmation(自己肯定)』である。

誰かに「あなたは大丈夫。あなたは間違っていない」と言われたい。
だが、それを言ってくれる人はいない。
だから、自分自身で言ってやるのだ。

そうして心の平穏を得るのだが、それが誠に頼りなく、危ういものであることも同時に分かっていた。

なぜなら、社会や周囲に対して怒りを抱えてはいたが、では何か社会に対して出来ることや発する事、役に立つ事が出来るか?

そんなものは何一つ持っていない。
20代半ばの俺は周囲に苛立ちを感じながら、何もしていない、どうしようもない人間だった。

居場所がなかったのだ。


同じ頃、俺はMMA(総合格闘技)にハマっていた。

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Uインターから、"リアルファイト"への強い願望を受け、10.9でUWF幻想から解き離れ、プロレスを楽しんでいた俺は"20001年の1.4"(佐々木健介vs川田利明)でプロレスに失望した。

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俺の中で総合格闘技への比重がかなり高まった。
プロレスが嫌いになったわけではない。
ただ、リアルファイトへの渇望がプロレスへの興味や期待感を上回っていた。

MMAは当たり前だが、リアルファイトである。
我々が"闘い"に求める事は『誰が一番強いんだ』という事だ。
その答えをPRIDEなどのMMAが見せてくれる気がした。

またMMAの試合前の"煽りV"が凄かった。

『世界一強い男が決まる』
『戦慄のKO劇を見逃すな!』
『瞬き厳禁の高速バトル開幕!』

そんな言葉で俺達を煽った。

しかし、いざゴングがなると、大した試合は行われず、大の男が組んず解れつ膠着して動かない退屈な試合も無くはなかった。

(…何だ?、この凡戦)

そう思っていたが、よく考えたら、これが"リアル"だ。
リアルファイトではプロレスのように飛んだり跳ねたりの展開などあり得ない。

タックルで相手に組み付き、地味に間接を決める。
それがリアルなのだ。
派手な打ち合いなど、そうそうあるはずが無い。相手を脳天から叩き落とす技などが飛び交うはずがないのだ。

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プロレスの"面白味"を知る俺には、MMAの膠着が時折、味気無く思えてしまった。

そんな時に見たのが、"帝王"高山善廣ドン・フライのPRIDEでの殴り合いだ。

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PRIDEのリングはMMAであり、プロレスのように勝敗は決まっていない。
リアルファイトである。

対戦相手が殴りかかってきたら、かわしても良いし、組み付いてグラウンド(寝技)に引き吊り込んでも良い。

だが、"あえて"互いに殴り合う。
そこにブック(台本)などない。相手の顔を変形するまで殴る。
互いに"真剣に"殴り合う。

(これはプロレスではないか?)

プロレスの結末は決まっている。
リアルファイトは決まっていない。

だが、互いに"真剣に殴り合う"と心に決めて殴り合うのは、結末を決めていない"プロレス"では?

退屈な膠着を肯定しながら、"真剣勝負"のMMAを応援するのか?

観客を煽り、興奮させる為に、"決まっている勝負"をするプロレスを応援するのか?

また、両方応援するのか?

現実の俺が自己肯定(self affirmation)してくれる居場所捜していたように、俺は"肯定したくなる"闘いの場"を捜していた。

そんな頃、世の中に現れたのが、

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『ハッスル』だ。
当初はプロレスラーを中心だったが、その内にインリンやHGやRGなどが芸能人がリングに上がり、プロレスをするようになった。

俺が『最強では?』と憧れた高田延彦も、高田総統としてリングに上がっていた。
(見たくなかったな…)

最初はそれなりに楽しんでいたし、静岡に来た時は見に行こうとしたが、辞めた。

…やはり、どうしてもそれが"プロレスごっこ"にしか見えなかったのだ。

プロレスラーは普段から体を鍛えリングに上がり、ファンを喜ばせる動きを繰り出す。

ハッスルのリングに上がる芸能人たちもそれなりに鍛え、プロレスの"ムーヴ"を身につける。
それはなかなか大変な事であり、その努力は称賛に値する。
またリング上で繰り広げられるプロレスのストーリーは、そこそこ楽しかった。

おそらく、WWE的なエンタメ系のプロレス、"ソープオペラ"を目指していたのだろう。
(最晩年のFMWと一緒)

だが、彼ら(芸能人)の普段のリング(居場所)はそこではない。

リングは、レスラーや格闘技者の為にあり、彼らが"闘う"事で我々は喝采を送る。

芸能人たちのするそれは、バラエティー番組の延長にしか思えなかった。
どうにも賛同出来なかった。

MMAもいまいち。
ハッスルもいまいち。

では、"従来のプロレス"はどうなの?

それが俺の"プロレス回帰"のきっかけになった。
(完全に離れたわけでは無かったが…)

"居場所"をプロレスに見つけたかった。

自身を自己肯定(self affirmation)出来るものが欲しかった。
それがプロレスに思えた。

2006年辺りであり、プロレス界はまだまだ"冬の時代"だった。

いろんなバイトをしていた俺は、地元の求人広告の会社にバイト入社した。

とにかく居場所が欲しかったのだ。

そして思った。

まずは何でも良い。自分を肯定してくれる"存在"が欲しい。
もっと言えば、自己肯定(self affirmation)できるバックボーンが欲しい。

そして、まずはそれに頼りながら生きるのだ。
そんな自分を肯定していた。

何が悪い?
文句あるか?

今は我慢だ。どんな馬鹿にも媚びて、靡いて生き抜いてやれ。

本来はそんな生き方など無理なのに、俺はそんな自分を肯定していた。

この事は後々大きな後悔になるのだが、その頃の俺は何も考えて居なかった。
自己肯定(self affirmation)に酔っていたのかも?

それだけ居場所が欲しかったのだ。