「お前はダメだ。全部ダメなんだ!」
「だから、上手くいかないんだ!」
「その考え、やり方を全て改めないとダメだぞ!」
など、現在の方法、思考を全て否定する事だ。
これには凄く有効な心理効果がある。
上のように他者から言われたら、どう思うだろうか? どんな反応をするか?
1、拒絶
「うるせぇな」「なんでてめえにそんな事を言われないといけないんだ!」と反発する。
2、受諾
「そうか、俺(私)はダメなのか?」「俺(私)は何をしてもダメなんだ…」とその否定を受諾する。
これは考え辛いが、立場か上の人や実績のある人間から否定させられると、そんな風に思う事もある。
3、部分受諾
「そんな事ないよ。…でも確かにダメな部分はある」「うるせぇな。…でもこのままじゃダメかな?」と、一部では反発しながらも、別の部分では受諾する。
大勢の人間が3ではないか?
特に学校や職場で、教師や上司から言われたら場合、否定を丸ごと反発するのは難しい。
これが全否定の効果の『一つ目』である。
選別が出来るのだ。
つまり、上記の2、3のような反応を示した人間だけを相手にすれば良い。自分の話を受け入れてくれる人間のみを相手にするのだ。
1のように反発する人間は、自分が"制御"出来ないから、自分の近くから排除すれば良いのだ。
自分を受け入れてくれる人間のみとしか付き合わない。
その選別が出来るのだ。
皆さんも覚えが無いだろうか?
学校に入学した時に、新入生だけの合宿があったり、新入社員の研修。
やけに起こられたり、指導されなかったか?
あれは学校なり、会社なりの"序列"、"ルール"を教え込ませる他に、『こいつは我々に従順か?』という選別をしているのだ。
効果の2つ目は、自分にとって都合の良い思考の"植え付け"だ。
『お前はダメだ』
↓
『ならば、何がダメではないのか?』
↓
『あの人が言っている事が正しい?』
↓
『あの人に従おう』
全否定に対して、受諾してしまう人間は、全否定をしてきた人間にとって都合の良い思考を植え付けられる。
冷静になれば、そんな事はおかしな事なのだが、そう考えてしまう。
ここで使われるのが
35で書いた、social relevance assessment(社会的適合評価)だ。
つまり、「あなたは"人として"正しいのか?」という投げ掛けだ。
前にも書いたが、『"人として"正しい人間』などなかなかいないし、それは個人差がある。
しかし、「人として…」と言われると、人間はさも『立派な事』を言っているように聞こえる。
この場合よく使われるのが、「本当の"声"を聞きたい」や「キミの本心は違うだろ!」などという『真実』を照らす問いかけだ。
確かに本音や本心を隠して生きるのは辛い。
だが、それは別におかしな事ではない。
社会において、本音本心をさらけ出して生きている人間など圧倒的に少ない。
上の"問いかけ"は無理な話なのだが、『本音本心から行動する』という"心理的な適合性"から、これに逆らえない。
相手の都合良い思考を受け入れてしまう。
全否定の効果3つ目は、"必要悪の主張"だ。
全否定する人間は、端から見たら、傍若無人であり、理論的に破綻していたりする。
「そんなに言わなくてもいいんじゃない?」
と制されたりする。
しかしそこで、
「俺もこんな事(全否定)は言いたくない。だけどアイツらの為に、さらに成長して欲しいから"あえて"憎まれ役をやっているんだよ」
と主張する事ができる。
正当化できるのだ。
これを糾弾出来ないのは、確かに人間はある程度、否定されないと自分を追い込まない事が多い(特にアスリートなど…)。
他人から否定され、それがモチベーションとなる場合も確かにあるのだ。
だから、"必要悪"を主張されると、一概に批判出来ない。
"他人(生徒、部下、後輩)思いの良い人"とさえ思ってしまう。
全否定にはこうした効果がある。
あるからよく使われる。
組織、集団、社会で誰か他人を自分の支配下におきたい場合、そんな風に他人と接触する。
…そう言えば、ライガーも飯伏幸太が新日リングに上がった際に、「おまえは全部ダメだ!」って叱っていたな。
(そんな事、無かったと思うが?)
俺は、こうした全否定に対し、1である拒絶を覚える性格であった。
「うるせぇ、馬鹿野郎!」である。
だが、『相手を支配したい』などという意図とは別に、本当に"全部ダメ"な人間はいる。
それに対して本当に「お前は全部ダメだ!」と叱っているのかもしれない。
そんな"クズ"確かにいる。
…この頃の俺がそうだったかな?
だがその頃の俺は、そんな自分を受け入れ切れず、さらに「何でも良い。とにかく組織に潜り込んでやる…」と思っていた俺は、自分を否定せず、優しく接してくれた地元の広告会社に安易にバイト入社した。
それなりに重宝され、便利がられていると思っていた俺は、"自己肯定"(self affirmation)状態だったのかも?
そこが居心地の良い居場所に思えた。
"自己肯定"は自分に自信をつける効果ある一方、思い込みや過信、否定された場合との落差による心理的なショックが大きいとされている。
それまでの自分の人生を鑑みて、否定される事が圧倒的に多かった。特に以前のブラック企業などは、"全否定"ばかりだ。
だから、俺は否定される事自体にかなりの嫌悪感を感じていた。(今も?)
そんな中、俺を受け入れてくれた(と思っていた)その会社はとてもありがたい存在だった。
プロレスに実力は関係ない。
格闘技者としての技術、身体的な特徴、長所はそれほど重要視されない。
大事なのは観客を好物させる力だ。
プロレスでの"活躍"を肯定する事は、リアルな"闘い(リアルファイト)"の否定とも言える。
プロレスにおける肯定の価値観は"興奮"であり、興奮とは『楽しい』である。
どちらが観ていて"楽しい"のか?
どちらを"楽しい"と思うのか?
リアルファイトもそれなりに楽しいが、当時の俺はプロレスの持つ『実力』を無視した"興奮"に再び引かれ出していた。
前(37)で書いた『高山善廣-ドン・フライ』戦にプロレスを感じた俺は、リアルファイトにプロレスを求め出していた。
PRIDEでの桜庭和志の派手な入場と、リアルファイトに、やはりプロレスを感じていた。
芸能人が"プロレスごっこ"をするハッスルに相容れないものを感じた俺は、新しいバイト先で"活躍"(と思っていた)する度に、(これってプロレスでは?)と思えた。
全否定され続けた社会人生活(…よく考えると、それほどでも無いが)で人から肯定される事は少なかった。
だから嬉しかったし、"実力以外"で評価される自分に満足しつつあった。
『社会とはプロレスである』
それを俺は少し都合良く、感じていた。
この後、本当にそう感じる事が連発するのだが…。