例の地元出版社に在籍していた時、不可解な理由で怒られた記憶がある。
確か、年明けすぐの出勤日だった。
課内の話題で『正月休みに何をしていたか?』になり、俺は何気に
「小國神社に初詣に行ってきましたよ」
と言った。
何故か、これに部長がキレた。
「鈴木君! 『年末年始は家だなぁ』って行っていたじゃないか⁉ 何故、初詣に行く? 話が違うだろ!」
確かに、休み前に予定を聞かれ、特に予定が無かったので、そんな"予想"を陳べた覚えがあった。
だが、予想は予想。
正月🎍は暇なので、小國神社(少し思い込み多くの有名な神社)に行って喜多のだった。
ただそれだけだ。
当初はそんな予定をしていなかった。
それの何がいけないのか?
部長からすれば、自分の"知り得ない行動"、自分が"予想出来ない行動"をされるのが、我慢出来ないらしい。
それが例え、初詣であろうともダメらしい。
…最も、部長からすれば、"キレた"わけでは無く、「驚いただけだよ」らしいが。
社会に出てから思うようになった事だが、何故か人は"思い込む"。
『アイツはきっと○○だ』
『あの人は○○○なんだ』
『あの人はたぶん○○○って思っているに違いない』
…など、勝手に思い込む。
他人の言動を"固定化"する。
先の俺の初詣の話を例にとれば、『正月はどこにも行かず、家にいる』のが、部長から見た俺であり、事実、俺自身がそういう予想をしていた。
ならば、そうでなければならず、そうでないとそれは"裏切り"である。
だから、キレたのだ。
しかし、何度も書いているが、人は自由だ。
休みに何をしても、何を言ったも、どこに行こうとも自由だ。
誰にも規制されない。
しかし、思い込む"側"の人間にすれば、自分の思い込みから"外れよう"とする他人はすべからく"裏切り者"である。
何故なら、自分の意思、予想に従い事が最も幸せであり、他人を幸福にさせ、安全で1番なのだ。
自分に従わない者、自分の予想以外の動きをする者は、全て"悪"である。
そして、思い込みは危うい。
他人を『こうだ!』と思い込んでも、他人はかならずしも、アナタの思った通りには動かない。
部長のようにいちいちキレていても仕方がない。
では何故、人は思い込むのか?
これが、俺がこの会社に入って感じた事だ。
この会社に限らず、他者は思い込む。俺も思い込む。
そして、その思い込みが外れると、部長のように激しく怒る人間がいる。
(俺は怒らないが…)
何故、人は自らの思い込みが外れると怒るのか?
俺はそれに一つの答えを見つけた。
『人は"思い込みたい"のである』と言うことだ。
元来、人間は自分にしか興味が無い。
他人などどうでも良いのだ。
しかし、社会を生きる上で他人の言動は自分を大きく左右する事がある。
だから、他人を把握しておく必要がある。
興味を持てない他人を"仕方なく"把握しておかなければならない。
だから、思い込むのだ。
他人を『こうだ!』『○○な人なんだ』と思い込めば、問題が無い。もうそれ意地、その他人の事をあれこれと考えなくて良いのだ。
その他人が自分の"支配下"にいるのであれば、尚良い。
『○○な奴』と認識しておけばそれで良い。
しかし、それが違うとなると大変だ。
また、その他人を"思い込み直さない"といけない。
それがたまらなく面倒なのだ。
だから、思い込みたいのであり、その思い込みから外れる他人が許せない。
単純に言えば、他人を自分にとって『敵か味方か』としかで見られないのだ。
他人が自分にとって、有益か、損害か。
それしかないのだ。
『善か、悪か、』とも言える。
プロレスの基本構造は、その善悪だ。
ヒール(悪役)が、暴虐非道な戦いをし、それをベビーフェイス(善玉)が打ち倒す。
その図式で観客の興奮を引きずり出すのだ。
善悪という、構図を思い込まないと楽しめない。(興奮できない)
非常に分かり安い図式だ。
ベビーフェイスはどこまでいっても"善"であり、ヒールはどこまでいっても"悪"だ。
(たまに変わる="ターン"するが…)
たか、これもたまに書いているが、レスラーたちはその"役"を演じているに他ならない。
ベビーフェイス(善玉)が実生活で必ずしも善なる存在であるわけでもなく、
ヒール(悪役)がリング外でも悪なわけでも無い。
そういう"役"である。
そういう演技をしているのだ。
プロレスは我々観客を楽しませる為の"ショー"という一面がある。
しかし、プロレスを観る上では、この図式を思い込まなければ、楽しめない。
"思い込まないと"、プロレスは楽しめないのだ。
強く、強く、思いこまなければ、プロレスにコミット(没入)できない。
そして、一度リングから離れ、プロレス会場から出たら、そこには善悪は無い。
我々は、あくまでもリング上でのレスラー達の"ショー"を見ているに過ぎない。
そこに思い込みがないと楽しめないのだ。
『プロレスなんて八百長でしょ? 下らないお芝居でしょ?』
と、思い続けている人は一生プロレスが分からないだろう。
思い込みは、"そう思い込めない"人間には、苦痛だ。
思い込める人間には、これほど"正しく楽しい"事はない。
だから、プロレスを『八百長だ』と言ってしまう人間が、他人の"思い込み"を正しく理解できないだろう。
思い込みは"魔力"だ。
人を引き摺り込む力がある。
猪木が見せた"最強"という思い込みは、それを信じる者(信者)からすれば、それが現実であり、それが"真実"だ。
思い込めば、多少無理があることも"可能"になってしまう。そう思えてしまうのだ。
明らかに"ショー"のようなプロレスの試合や、猪木の異種格闘技戦も、それを『真剣勝負』と思い込めば、そうなのだ。(信者にしたら…)
初詣に行った俺にキレた部長のような勝手な思い込みは誠に迷惑なだけだが、人の思い込む力は現実を歪ませたりするのは事実だ。
その思い込み通りでないと気がすまないのだ。
では、どうすれば思い込まれないようにできるのか?
それは不可能だと思う。
人が人と関わって生きている限り、人の"主観"から逃れる事はできない。
他人はアナタを勝手に思い込むし、アナタも他人を勝手に思い込む。
だって、人は"自由"だから。
もう他人の思い込みに歯止めをかけるのは不可能だ。
自身が思い込まないようにしないといけない。
人間は思い込む。
ならば、自分だけは他人を勝手に『○○だ!』と思い込まないようにするしかない。
他人は勝手に動くし、話すし、思い込む。
そういう"もの"である、と覚悟するしかない。
何一つ、自分の思い通りになる事はない。
「正月はどこにも行かないかなぁ」
なんて言っていた部下が、初詣に行くかもしれない。
だとしても良いではないか?
何の不満や、問題がある?
それが人間であり、人間は自由だろ?
皆、他人の勝手だ。
それに、耐えるんだ。それが"社会人"では無いか?