鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

プロレス心理学70 2010年の再生

30を過ぎた成年男性が、何日も病室の白い天井を眺めながら生きていくのは、かなりの"苦行"だった。

(俺の人生、終わったのかな?)

何回かそんな事を考えた。
つい、1ヶ月前まで、(準職員になって、正職員になって、俺の人生は明るくなるんた!)などど、
希望していたのが"幻想"に思えた。

幻想は、やはり幻想なのだった。

今は、生きているか、死んでいるか、分からす、病院の"ICU"(正確には準ICUか?)で、頭から管を出して(脳髄液用)、1日中、天井を見つめるしかない生活を送っていた。

それが2010年の4月頃の俺だった。
特に良いこともして来なかったが、そこまで悪い事もしていないはずだ。
何故、俺がこんな苦境に臨まなくてはならない。

誰かに叫びたいが、叫ぶ相手が分からなかった。
手術直前に『不採用通知』を送って来た"会社"か?
…いや、それは違う気がした。
会社のせいで脳腫瘍になった分けではない。また俺の不採用を決めたのは、発祥前の俺への評価だ。
会社を恨むのは、"筋違い"だ。(頭には来たが…)

希望など何も無い。
早く普通の生活に戻って、働きたかったが、それがいつになるか、分からなかった。
退院し、働く夢を何度も見た。
自分の葬式の夢を何度も見た。

やがて、梅雨の季節になり始めると、俺の頭の管は抜け、一般病室に通された。
ICU中、一切食事ができなかった俺は13キロほど体重が落ち、歩けなくなっていた。
点滴で最低限の栄養は摂取していたが、俺の筋力は、自身の体重を支える事が出来ないくらいに落ちていたのだ。

リハビリが始まった。
次第に回復していく身体の機能。
それは嬉しかった。

身体が、徐々に"再生"していくように思えた。

だが、同時に現実が頭をもたげて来る。
俺の頭の腫瘍はかなり大きく、一度の手術では取りきれなかったのだ。
まだ半分の腫瘍が俺の頭にはあったのだ。

回復しても、この地獄のような苦しみがまたある、と思うと暗くなった。

それでも病院は早く退院したかった。
別に主治医や看護婦(男もいたが…)が気に入らなかったわけではない。非常に満足している。

俺はまだ"幻想"の中にいた。

まだ30代半ば、"働き盛り"だ。
働きたい。遊びたい。数ヵ月前のように生きていたい。

それが可能だと思っていた。
『出来る』と思っていた。
萎んだ俺の気持ちも、"再生"しかけていたのだ。
"幻想"の中で…。


病院では、あまりプロレスは見たかった。自分の事で精一杯だったのもあるが、何より、この時期はプロレスを問わず、"格闘技・冬の時代"だった。

プロレスはまだまだ人気が下がったままだった。
代わりにハマっていた"MMA"は、PRIDEが解散し、流星の滝だった"K-1"も、人気に陰りが見えた。

いわゆる"エアーポケット"のような時期だったのかも?

そんな中、一人で団体(新日)を盛り上げていたのは、

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棚橋弘至だった。

ちなみにオカダカズチカはまだ凱旋前…。

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熱心なファンの間では復興への"息吹"が感じられたのだろうが、俺はそれどころではなかった。

(これから自分の人生、どうなる?)
(退院して、もう一回手術したら、大丈夫だよな)

と、根拠の無い幻想をまだ見ていた。
そして新日のマットで愛を叫ぶ棚橋を見ていた。

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俺が『プロレス=幻想』という考えを決めたのは、この頃かもしれない。

『本当に強い奴は誰か?』
それは、"MMA"のリングで殴りあって、間接技と絞め技の中で決めたらよい。
それが"現実"なのだろう。

だが、"プロレス"は違う。幻想だ。フィクションだ。
俺たち、観客の見たい"幻想"を見るのだ。

イヤならば、味気無い"現実"を観ておけ。(これはこれで楽しいのだが…)

俺はまだ人生が終わっていないと、"思い込んで"いた。
回復し出した身体は、俺に甘い"幻想"を観させてくれた。

あの"輝く"ような"現実"に俺は戻れると思っていた。

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準職員試験は不採用だったが、それがどうした?

俺は生きている。
生きているから、夢を持つ。

悪いか、馬鹿野郎!
そう思って、2010年の年の瀬を自分の部屋で迎えていた。

『1.4』を楽しみにしながら…。