鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

プロレス心理学71 2012年の怒れる男

2011年の年末を俺は不安と期待の入り交じった複雑な感情で迎えていた。

"駆け足"で書いてきたが、リハビリは辛く、夏に受けた放射線治療は想像を絶する苦痛だった。
放射線治療で抜けた髪の毛が生えてくる頃、俺のいた"公的保険機構"の事務所から、復帰の話が出て来た。
まだ契約は一年ほど残っていた。
摂りきれなかった腫瘍の再除去手術の日程がまだ具体的に決まってはいなかった。

その手術にも当然多額の費用がかかる。

事務所側からしても、『脳腫瘍のアシスタント職員の復帰など、認められるかっ!』などと冷血な事を言えるわけがない。
ウェルカムではないが、俺の復帰を意思を無下には出来なかっただろう。

俺は2011年の事務所に復帰する事を決めた。
本音を言えば、少し嫌だった部分もある。
体力はそこそこ回復したものの、俺の言葉はあまり回復を見せず、他人に声を聞かれるのが嫌だったのだ。聞き返されたりするのが、一番傷付いた。

また、準職員採用試験の『不採用』の件もある。
それほど周りにはアピールしていなかったが、不採用だった気恥ずかしさもある。
本来なら、『誰が不採用になった会社に契約社員で戻るか!』なのだが、その時の俺に他に行くアテなど無かった。

悔しいが元の職場に戻るしかない。

しかし、その反面。嬉しくもあった。
1日中、白い天井を見つめていた日々からすると、働けるようになったのが、堪らなく嬉しかった。
まだ30前半。
ここから人生をやり直すぞ。
俺は働ける。
そう心を奮わせて、俺は復帰した。

だが、事務所の人々の態度は微妙なものだった。
脳腫瘍を患った人間に辛く当たる奴などは流石にいなかったが、働く皆に共通するのは、(あーあ、鈴木クン、可哀想に…)という"同情"の気持ちだった。

ある程度体力は回復したものの、やはり俺は以前の俺では無かった。
動き、感覚、動作、反応、どこかしら遅かったり、正確さを失っている。
言語中枢に深刻なダメージを受けた俺の放つ言葉は以前に比べ、不明瞭さが増した。

それは俺自身が一番分かっていた。

事務所の同僚らの俺を見る目には、それを『可哀想』と見る"同情"の意識があった。

仕方ない、とは思った。
俺が脳腫瘍を発祥したのは事実だし、そんな奴が復帰してきたら、『可哀想に』と思うだろう。
…仕方ない。

俺の復帰後のイメージは大分と違ってきた。
もっと華々しく働いて、不採用にした事を後悔させるはずだった。

俺はあまりにも自分に都合の良い"思い込み"をしていたようだった。

一年が瞬く間に経ち、俺の2回目の除去手術が2012年の1月に決まった。
た、あの"地獄"のような日々が来るのかと、暗い気持ちだったが、放射線治療の影響は凄まじく、1回目は16時間もかかった手術が、2回目は三時間程で終わり、俺の頭の腫瘍は完全に除去された。
身体へのダメージも1回目ほど無く、1ヶ月の療養で俺は退院できた。今回はICUには入れられなかった。

この時、2012年の2月。
公的保険機構との契約は3月いっぱい迄あった。
だが、俺はもうこの事務所に復帰する気持ちは無かった。

俺は手術直後に感じた"無力感"に近いものをこの事務所に感じていた。

俺は何を信じていたのか?
安定?
安心?

そんなものは、"幻想"だった。

脳腫瘍を患った俺は、大きな組織から見たら、厄介な存在であり、別に大事にされる理由は無かった。

それでも良い。
描いていた『明るい将来』の姿は幻だった。
だが、良い。
多少、想定が変わった、だけだ。

まだ30代前半。働き盛りだ。働ける自信もある。重宝される気もした。
『俺はここ以外でも働けるはず。だって、俺は"優秀"だから…』

本当に"愚か"だ。

『自分は優秀である』というのは、全くの"思い込み"である。
公的保険機構に対する期待は幻想だった。
だが、自分自身への期待は信じていた。
(俺はまだ"出来る"はず…)

そんなわけがあるわけが無い。

その証拠に契約解散後、俺は様々な仕事の"正社員採用求人"に応募するが、ハシにも棒にもかからなかった。
書類審査で落とされ、面接に進めるのは、数社。それも全く引っ掛からない。
(…いきなり、正社員は無理だったか?)
GWを過ぎた辺り、俺はさすがに焦ってきて、アルバイト採用も視野に入れて求職活動し始めた。

出版社の時と同じだ。まずはバイトで採用され、後はそこで真面目に働き、正社員採用を狙う。

だが、そのアルバイトにも全く採用されない。

(こんなはずては…)
話が違う。
俺は優秀のはずでは無いか?

俺の"幻想"はあっけなく崩れた。
よく考えてみたら当たり前だ。
誰が30過ぎの"病気患い"の男など雇うはずがない。
だが、俺は(自分は優秀だ)と思い込んでいる俺は、世間が、社会からどのように見られているか、全く理解していなかった。

残ったのは、行き場の無い"怒り"だった。

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(怒りの獣神サンダーライガー)

『何故、俺は採用されない!』
『病気は既に直った。…俺は健康だ!』
『…皆、俺を分かっていない!』

自分の"甘さ"を棚に上げ、俺は自分勝手な希望が叶わず、一向に浮上しない現実を、他人や世間、環境のせいにしていた。

バカな男だ。
我なから、本当にそう思う。

事務所の同僚を心の内側では小馬鹿にしていたのに、俺はどうにならない現実を"他人"の責任にしていた。

なかなか再々々就職が決まらない理由は、俺自身の責任なのに、俺を受け入れてくれない社会、世間を猛烈に恨んだ。
(脳腫瘍の原因は俺自身には無いと思うが…)

そんな俺が、さらに怒り狂う出来事が起こった。

ある日、ハローワークで求人案件を検索していると、数ヵ月前に契約解除された事務所の『準職員応募』の求人案件が出ていた。
それは、事務所からの求人だった。

おかしな話に思えた。
『準職員』応募は普通、事務所の"上"、"ブロック"が応募を行う。
それが事務所応募…。

思い当たる事があった。

契約解除の際、俺は課長に"お礼の挨拶"を電話でした。
その時に課長は俺に「夏頃、また準職員の応募あるから…」と言われた。
正直言って、一度不採用になった準職員採用試験を受ける気持ちは無かった。

それが、また採用試験。
さらには、"ブロック"応募ではなく、"事務所"応募。

…これは俺の為に用意された求人なのでは?

そう思うと、猛然と怒りが沸いた。

そこには『ほら、お前、どうせこれになりたいんだろ?』と言われている気がした。
そう小馬鹿にされている気がした。
脳腫瘍になった哀れな30歳のアシスタント職員に"仕方なく"、準職員に"させてやる"。
そんな気がした。

頭に来た。
(なめやがって!💢)
俺はその案件を見て、"上から目線"を感じて、腹の底からは怒りが込み上げて

(俺を馬鹿にしやがって!)

自分が他人を馬鹿にしているのに、俺は事務所が差しのべてくれた手を振り払った。

まだ『俺は他でも採用されるはずだ』と、根拠の無い自信があった。

…しかし、全く採用されない。
それでも、元の事務所(公的保険機構)に戻る気持ちは沸かなかった。

と、同時に自分の甘さをまた痛感した。

散々頼って、(ここに居たら大丈夫)などと思っていた。
同僚を馬鹿にしていた。
準職員になり、やがては正職員に昇格し、"明るい将来"を信じていた。
それが、あそこ(公的保険機構)で可能だと思っていた。
そして、そこから放れても、自分は大丈夫たと思っていた。

なんと"甘い男"だったのか?
本当に情けない。
俺は、何を信じていたのか?
何を頼っていたのか?

そもそも、頼って良かったのか?

そう思えば、大学卒業した後、俺は誰かに頼ってばかりではなかったのか?

ブラック企業に…。
地方出版社に…。
公的保険機構に…。

俺は頼り切っていた。
しかも、それが自分の思い通り行けないと、怒る。
とんでもない馬鹿だ。

俺は自分自身に怒った。
全てを他人や環境、不運のせいにして、頼り切っていた今までの自分に。

そして、そうしなければ生きていけない自分を考えた。
どんなに怒ろうと、嘆こうと、小馬鹿にしようと、人間は誰かに頼っていかないと、生きていけない。

"組織"は下らないが、その下らない組織に入らないと、自分の人生が開かない時がある。

俺はこれからも、こうして世間、社会、他人に頼って、怒って生きていくのか…。

全ては俺の"思い込み"だった。
優秀で、誰が救ってくれる"俺"などどこにもいないのだ。

それが、よく分かった。


2012年の夏は凄まじく暑かった。
俺は無職のまま、自分への怒りを抱えて生きていた…。