鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

プロレス心理学72 "思い込みと自己愛"の果て

脳腫瘍から復帰した俺だったが(2012年)、就職は決まらず、自分の"現状"を思い知っていた。

俺が大学卒業後に社会人として感じていた疑問や、感じていた"生きにくさ"に向き合う時だったのかも知れない

一人、思い出した人間がいた。

大学の頃の知り合いだ。

彼はものすごく"思い込み"が激しかった。
よく他人に対し、「アイツは俺の事をナメている」「俺を馬鹿にしている」と、決め付けて怒っていた。

「そんな事ないのでは?」と説得しても聞く耳を持たず、一度思い込んだ他人は大嫌いになり、全く認めようとしなかった。

自分の気に入った人間としか遊ばず、自分に反抗したり、気の合わない人間、弱い人間は徹底的に攻撃し、排除した。
常に自分の好きな"仲間"としか付き合わない、"わがまま"な人間だった。

彼は、自分が大好きだ。自己愛だ。
自分を愛する故に、自分を愛してくれる人たちとしかいたくないのだ。

俺も彼から、そんなに好かれていなかった。
よく口論したりした。

…そのわりには、よくすり寄って来たな。

そんな彼は、大学卒業後、就職に失敗し、よく大学に現れた。
自分を慕う後輩に会いに来ていたようだ。

それを聞いて、俺は彼の人生があまりうまく行ってない事を感じた。
寂しいのだろう、と容易に想像が付いた。

当時、俺は例の"ブラック企業"で社会に揉まれていた。当たり前の話だと思った。卒業してしまえば、待っているのは誰も頼れない世間だ。どんなに大学で"威を張って"も、一度社会に出たら、そこは自分は小さな存在でしかない。

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彼は、大学という小さな組織、グループでしか居れない人間だった。
自分を慕い、自分が好む人間としかいたがらない人間だった。
だから、自分の"影響"の外にある環境に出たがらない。
自分の"知らない他人"は、当然自分に厳しい。
他人は常に、自分に"否定的"である。

だが、それは社会に出たら、誰もが"通る道"であり、俺も彼も例外では無い。

そして、一年後…。

その男は亡くなった。
自分で自分の人生を"終わり"にしてしまった。

『自分で自分を終わらせる者は、愚かである』
俺は自殺する人間を、絶対に認めない。

あるノンフィクション作家が言っていた。

『自殺した人間に対する「何故、死んだのか?」は、生きている我々への『何故、アナタは生きているのか?』という問いになって返ってくる』

何故、俺は"生きている"のか?
それは生きているからだ。
生きていたなら、何か"良いこと"があるかもしれない。
コキ使われ、解雇され、脳腫瘍になった俺たが、まだ自分の人生に期待していた。
(明日、宝くじが当たって大金持ちになるかも?)
(明日、絶世の美女と偶然出会えるかも知れない…)
そう思えるから、俺は自分の人生を生きている。
まだまだ自分に"期待"しているから、俺は生きている。
どんな辛い事、困難な事があっても、『もしかして明日は…』と期待する事ができるから、生きている。

それは、まさに"思い込み"だ。
自己愛だ。
自分を愛しているから、自分の明るい未来を思い込む。
そんな"幸運"が起こる可能性は、極めて低い。しかし、0%では無い。

死を選んだ人間は、自分の未来に何の期待もしていないから、

『俺なんて生きていても…』

と思ってしまう。

何故、彼は"期待"出来なかったのか?

大学時代、自分の好む人間としか付き合わなかった彼は、社会に出された途端、自分の"居場所"を無くした。

社会と適合出来なかったのだ。

『アイツは俺を馬鹿にしている』と、他人を『"仲間"か、"敵"か』でしか見れなかった彼にとって、この社会は自分に対して攻撃をしてくる"敵"だらけの世界だ。
相当、生きにくかったに違いない。

だから、死を選んだ。愚かだ、と思う。

『明日はきっと良いことが…』が"思い込み"なら、『みんな、俺を馬鹿にしている』もまた"思い込み"だ。

思い込みは、自分を消してしまう。
『他人を"消す"人間は、結局は自分を消してしまう』

俺のこの考えは、この出来事から生まれた。

どの会社からも相手にされず、"頼るべき"居場所を失った俺は、過去のそんな友人を思い出した。

同じ頃、低空飛行していたプロレスは、ようやく復興の光が見えて来た。

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特に新日本プロレスは、"レインメーカー"、オカダ・カズチカの登場などで盛り上がりを見せてきていた。
新日本だけではなく、プロレス界全体が再度浮上してきたような感じがした。

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何故、プロレスは"復興"したのか?

PRIDEなどの"格闘技系"イベントが"自滅"していった感じもあったが、復興にあっては、観ている我々が望んだ"リアル"の試合が、プロレスより"味気なかった"からではないか?

リアルファイトは、人間の"実力"が優劣を競う闘いだ。
だから、膠着したりして観ているこちらは、楽しくなかったりする。

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だが、プロレスは違う。
膠着などない。"リアル"ではない(と思う)から、常に"劇的"な試合展開で、出て来たレスターは互いの良い部分を出し合って、好勝負になる。
それは"幻想"だが、心地よい幻想である。
何故ならリアルは、リアル(現実)だから味気無く、相手の良い部分などでない。

リアルファイトの"膠着"、現実の厳しさと味気無さを感じたら、プロレスが見せてくれる"幻想"は実に"甘美"で、興奮させてくれる。

だから、プロレスは復興したのだ。

俺は、俺に見ていた幻想から離れる時が来ていた。
誰かに頼る行き方(幻想)、自分に都合良い将来(幻想)は、いつか必ず俺自身を"消して"しまう。

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プロレスが面白いように、自分で描いた"幻想"は楽しい。

だが、それはやはり幻想だ。
その幻想の"果て"はどうなるのか?

それを俺は知っていた。