前回書いた俺の"知り合い"は、とにかく思い込みが強かった。
「…アイツは俺を馬鹿にしている」
「…アイツは俺が嫌いだ」
端から見たらそんな事ないのだが、とにかく、誰かを攻撃し、排除しないと気が済まない性格のようだった。
話を聞けば、それは相手が彼と仲の悪い人間と仲が良かったり、ある日のやりとりが気に入らなかったりと、些細な出来事が原因だった。
他人を攻撃し、排除し、自分の気に入った人間らとしか付き合わなかった彼は、最終的に自分を"排除"してしまった。
悲しい人間である。
何故、そんな風にしか周囲を見れなかったのか?
そこにあるのは、強烈なまでの"自己肯定"ではないか?
人間は誰しも、『自分は正しい』『自分は間違っていない』と"思い込む"。
だから、自分に"意見"する人間や自分の"意に反対する"人間は、自分を"否定"する存在であり、自分を攻撃してくる"迷惑"で、相容れない人間である。
おそらくその"知り合い"からすれば、この社会は自分を"攻撃してくる"非常に"生き辛い"世界だったのだろう。
何故なら、この世にもいる人間はそれぞれ自由であり、常に自分と違う考えや行動を取る。
それが耐えられなかったのだろう。。
他人が自分に"従わない"のは、自分に対する否定であり、それ自体が自分という存在を攻撃してくるのだ。
彼からしたら、自分に"従わない"他人だらけのこの社会は、常に自分を"攻撃"してくる地獄のように感じたのだろう。
学生の頃はまだ良かった。
自分に対して好意的な人間としか付き合わないようにしておけば、問題無い。
しかし、社会人になれば違う。
自分に"従わない"他人だらけである。
それぞれが意見を持ち、考えを持っている。自分の考えを何より優先してくれる他人など1人もいない。
…人間関係とはそうした、"他人"と関わる事から始まるのだ。
それが出来なかったに違いない。
自分は肯定したい。
だが、自分を優先してくれない社会(世間)は、常に自分を否定してくる(そんな事はないのだが…)。
だから、この世に"自分"の居場所を見つける事が出来なかったのだ。
彼の死を聞いた時、不謹慎ながらも、『…そりゃ、そうなるわな』と納得してしまった部分がある。
弱い他人を"攻撃"し、自分を優先してくれる人間だけを好んでいた彼に、この社会はあまりにも生き辛い。
俺も大学卒業してから十分に感じたが、社会とは常に自分の味方ではいてくれない。
世の中、"敵ばかり"とも言えなくもない。
だが、そこをどうにかやり抜くのが社会人であり、成長であり、適応である。
彼は余りにも社会に適応出来なかったのだ。
自己肯定だけを求め過ぎ、自己否定を嫌った。
『自分は常に正しく、他人は間違っている』
そう信じるのは、その人間の勝手たが、社会ではそれだけでは生きていけない。
自分は正しいが、他人もまた正しいのだ。
自分を優先して欲しいのと同じように、他人もまた優先されたがっている。
何故なら、他人もまた正しいからだ。
社会とは、そうした意識の"兼ね合い"と"関係性"の中で構築されている。
2回の脳腫瘍除去手術を経て、"会社"を契約解消した俺は、全く仕事が決まらず、また日雇いなどの契約社員を短期的に続けながら、どうにか生きていた。
いろんな人間にあった。
その多くが、以前勤めていた会社で見られた"どうしようもない上司"と同じだった。
皆、自分が大事で、威張りたくて、他人から優先されたくて、尊敬されたくて仕方ない"わがまま"な人間ばかりだった。
思い込みが強く、自分の気に入らない他人を"排除"したがる。
そんな彼らを見ると、俺はいつも自身を"排除"してしまったその知り合いを思い出した。
俺は自殺する人間を、絶対に認めない。
脳腫瘍から復活した経験から来る考えだが、死とは"救済"では無い。
死亡は、自分も誰も救わない。単なる消滅だ。
アナタという存在が消えるだけだ。
それは悲しいと他人は思うかもしれない。
だが、その思いがいつまで続くは分からない。
死んだアナタの事などすぐに忘れ去るかもしれない。
この世から消えてしまえば、それを確認する方法は無い。
何故なら、アナタは既に"いない"から…。
"死"とは、救いや逃げでは無く、消滅である。この世から消える。それだけなのだ。
死とは、非常に"損な"行為と言える。
何の為にもならず、誰も救わない。
他人もアナタも…。
だから、それを自ら行う人間を絶対に認めない。
自分は正しいと、思い込んでいるのは、俺もだ。
ただ、"彼"と違うのは、『他人もまた正しい』と分かっている事だ。
自分に対する肯定をし過ぎてもいけない。
(否定し過ぎもいけないが…)
プロレスは他人(相手)を絶対に否定しない。
否定的な言葉を対戦相手に対して放つが、
その対戦相手(他人)が存在しなければ、プロレス自体が行えない。
だから、他人を"排除"することは、また自分を排除する事だ。
「テメェなんて殺してやる!」などと言うが、その殺したい相手がいなければ、また自分もいないのだ。
だから、プロレスは他人を肯定する事から始まる。
否定したい他人を肯定しないと、成り立たないのだ。
何度も書くが、
『自分は正しい』と思い込むのであれば、同じように他人も正しい。
正しいから争い、闘う。
そして、どちらが正しいのか"決める"。
…リングで。
自分を肯定したいから、また他人も肯定するしかないのだ。
他人は誰も否定してこない。
「アイツは俺を馬鹿にしている」は思い込みだ。
また、『自分が誰よりも正しい』も思い込みだ。
否定されてもいないのに、否定された気になり、他人を否定したがる。
悲しい。
そう言う意味では、"彼"は非常に哀れな人間だったのかも?
他人を否定し、排除していたのは自分を肯定したいからであり、肯定したいから、肯定してくれない社会から"消えて"しまう。
彼は誰に対して攻撃していたのだろうか?
他人を"肯定性"を認められない人間は、また自分を認めていないに等しい。
頭に来る他人がいる。
分かり合えない他人がいる。
消えて欲しい他人がいる。
そう思えば、思うほど他人は居る。
自分が思い込めば、思い込むほど消えない。
だからと言って、自分を"消す"のは意味がない。
自分は正しい。
自分を認めない他人は間違っている。
そんな他人を消したい。
それは思い込みだ。間違ってはいないが、そう思えば、思うほど他人も正しく、他人は間違っておらず、他人は消え無い。
だからと言って、自分を"消す"のは意味がない。
思い込みをするのは間違いではない。
だが、対戦相手のいないリング(社会)には、アナタもいない。
人は人と関わる事でしか生きられない。
だから、俺は他人とモメるのが大好きだ。
他人など大嫌いで、面倒くさく、"彼"のように自分を優先してくれないから大嫌いだ。
だが、そんな他人がいなければ、また社会もいないのだから、モメたりするのは当たり前で、そうでなければ社会では無い。
契約解除になり、フラフラと働きながら俺は他人とよくモメた。
モメる事を厭わない。
むしろ、歓迎さえしている(口には出さないが…)
そんな感じで、俺の社会に対する"スタンス"が固まって来た…。