一向に就職のめどが立たない俺は、(当時も)人手不足の介護の仕事に就こうとした。
当初、かなり迷った。
脳腫瘍は除去されたとは言え、再発のリスクはある。
今度再発したら、"ステージ2"で済むだろうか?
将来、介護"する"側から、"される"側になる可能性がある。
それなのに、介護職に就くのはかなりおかしな気分だった。
しかし、『背に腹は変えられない』のだった。
俺は、浜松市内のとある介護会社の求人に応募した。
話は順調に進み、採用が決定。
主治医からの『就労証明』も出て、就職の為の『雇い入れ健診』の予約を近所のクリニックにして、働き始める5日前。俺は、介護会社に初日の出勤時間の確認の為に電話をした。
すると、俺を面接した所長(?)が飛んでもない"ヒールターン"を告げた。
「あの、採用の件、無かった事に…」
突然、入社を取り消しされた。
理由は「病気(脳腫瘍)の再発が怖い」だった。
主治医からは、"就業許可"はもらっていた。2回目の手術から既に1年近く経っていた。もちろん病院で定期検査(MRI)は受けている。
再発の兆候は無い。
だが、それを他人から言われるとツラい。
可能性は無いわけではない。いくら本人(俺)が大丈夫だと言っても、雇う方からしたら心配だろう。
(…そんな)と内心は思ったが、無理なものは無理だ。せっかく覚悟を決めて介護職に就こうとしたのだが、病気を言われたら、どうにも抗弁できない。
脳腫瘍は事実だからだ。
後々思えば、金の無い俺からしたら、『働きたいだから、働かせてくれよ!』なのだが、雇う方からしたら、業務中にぶっ倒れたりしたら大事だ。
人手不足とは言え、"リスク"は負いたくないのは分かる。
今から思えば、極めて"真っ当な"企業判断と言える。
似たような事がよくあった(ある)。
どんなに綺麗事を言ったり、面接で俺を気遣う言葉を吐いても、それは"同情"でしかないのだ。
『一緒に働く』、『賃金を払う』となると別問題なのだ。
だから、今ではあまり気にしていない。
それよりも俺が気にしたのは、『入社拒否』の際に、介護会社の担当者が言った言葉だ。
「現場は鈴木さんを雇いたいのですが、"上"が…」
「私も組織の人間です。…お分かりになるでしょう」
と言って来た。
つまり、『この件(入社取り消し)は、私の一存ではなく、会社の"幹部"の決定であり、それに異を唱える事はできない』と言いたいのだ。
本当だろうか?、と思えた。
『病気が怖い』というのは、会社として本当の気持ちだろう。
しかし、"取り消し"を決めたのは果たして幹部なのか?
人手が足りず、入社を歓迎したが、よく見たら脳腫瘍。入社取り消しを言いにくいから、「会社幹部が…」と"言い訳"に使ったのではないか?
ま、別に取り消しは取り消しなので仕方ないが、何故、はっきりと
『よくよく考えたら、アナタの病気(脳腫瘍)が怖いから、入社を取り消ししたい』
と言えないのか?
何度も書くが、それは正しい企業判断だ。そりゃ、いきなり言われるのはショックだが、そう判断したのなら、そう言えば良い。
文句の一つも言われるだろうが、仕方ないではないか?
俺が『嫌だ! 絶対入社する!』と暴れるとでも思ったのだろうか?
思えば、前職の"公的保険"事務所の"あの"課長の言葉(『7月に求人募集あるよ?』)と同じだ。
『コイツ(俺)に何かあっても、責任は取りたくない!』なのだ。
俺は、こういう人間とこの後にも、それこそ『嫌と言うほど』出会う事になる。(今も…)
何かあると、必ず担当者に連絡する爺さん。
俺と話す時は必ず"上司"を連れてくるバカ。
誰かと一緒でないと、何も言えない主任。
「○○だから仕方ない」と理由を他に転嫁する社長。
皆、何故か、自らに"後ろ楯"や、自分以上の何かを理由にしたがっていた。
何故か?
その理由を俺は『勇気(度胸)が無いからだ』と思う。
つまり、自分に非難の"先"が来るのが、とてつもなく嫌なのだ。
つまり『腰抜け』である。
俺も誰かから非難されるのは嫌だ。
しかし同時に、自分が起こした行動で非難されたり、怒られのは"仕方ない"とも思っている。
自分の行動は、自分にとっては"正解"だが、他人からしたら"間違い"かもしれない。
『自分は絶対に"間違っていない"』と思い込んでいる人間は、他人から非難される事を圧倒的に嫌がる。
非難を認めてしまうのは、自分を否定することになるからだ。
そこにあるのは、『自分は正しい』という強烈な自己肯定の思い込みだ。
人は間違う。
また、間違ってなくても批判される。
誰からも批判されず、常に高評価される事などありえない。
プロレスにヒール(悪役)がいる。
ヒールが悪虐非道なラフプレーを繰り出し、ベビーフェイス(正義の味方)が、それを圧倒し、是正することで試合が成り立つ。
大事な事は、その"対立構図"がプロレスであり、"彼ら"の目的が観ている観客の興奮を引き出す事である。
言うまでもなく、ヒールは悪"役"だ。
本当に悪人でなくてもよく、リングを降りたら普通の人間である。
彼(ヒール)は、悪役を演じる"勇気"が問われる。
観客からのブーイングや、酷評、蔑み、罵倒…、全てを受け入れる"覚悟"がいる。
繰り返し書くが、"役"なのだから、嫌ならばやらなければ良いのだ。
だが、誰かが悪役をやらないとプロレスは成り立たない(場合もある)。
自らへの非難を拒むものは、皆、総じて、それを受ける"勇気"がない、"腰抜け"である。
批判を覚悟しなければ、社会というリングでは生きていけない。
悪役を誰かがしなければ、プロレスが成り立たないように、誰かにとっての"悪役"を引き受けなければ、やはり社会は成り立たない気がする。
「悪いのは全部、私」
「責任は全て、俺」
「文句があるなら、こっちに言え」
何故、それが言えない?
大した事でもないのに、人は自分の責任になったり、非難される事を言わない。
そこには強烈な自己肯定がある。
情けない"自己愛"だ。自分を守りたいから、絶対に非難されたくないという、"小さな自分"を守りたい腰抜けである。
しかも"腰抜け"は、自分が『臆病者』であると思われるのも嫌がる。
対外的には、『度量の大きな人間』などと思われたたいのだ。
長州と同じ。それこそ「勇気ねぇよな」なのだ。
("キレてない"のリアルヴァージョン)
社会を生きるのには、勇気がいる。
度胸と覚悟がいる。
他人からどのように『評価される』のか、わからないからだ。
俺の入社を取り消しした介護会社だが、長い目で見たら、"正解"だったのかもしれない。
だが、俺からしたら絶対に"間違い"だ。
ただ、それだけなのだ。
気にする事もない。
ただあの担当者に非難される覚悟が足りなかっただけである。
この頃(2013年)、こんな事がよくあり、俺はようやく"自分の見られ方"が分かってきた。
薄々気付いていたが、こうした経験から、体感し、理解できたのだ。
『もう、何かに所属するのは無理かな』
と思った。
同時に思い出したのは、あの"白い天井"だ。
一度目の手術の後、ICUで2ヶ月近くひたすら見ていた、あの天井。
自分の人生がそこで終わる、思えた。
早く普通の生活に戻りたかった。また働きたかった。
俺が求めていたのは、こんなものだったのか?
こんな"腰抜け"の中で、生きて、働くために手術で死にかけて、"地獄"の放射線治療を経て、リハビリをしてきたのか?
違うのではないか?
俺は自分の『これから』について深く考え始めていた。