鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

プロレス心理学82 その"プロレス"にリアルは必要か?

「アイツは俺を馬鹿にしている!」と、他人を"決めつけ"、"排除"していき、最後には自分を"排除"してしまった、"例の"知り合い。

本当に他人が自分を馬鹿にしているか、どうか、などは分からない。🤷

もしかしたら、そんな気持ちなど微塵も無いのかもしれない。
もしかしたら、確かに馬鹿にしているのかもしれない。

それは分からない。
何故なら他人の気持ちなど、本当は分からないからだ。

だか、我々は他人の"本心"を知りたがる。
『本当はどう思っているのか?』を知りたがる。

絶対に分からないのに、である。
だから、他人の仕草、発言からそれを読み取ろうとする。
『心理学』という学問を突き詰めたら、結局は『人間は◯◯◯と思うと、◯◯という動作をしがちだ』という行動統計に行着く。

他人の心を知りたいから、目に入る"情報"でそれを推測する。

何故、そこまで他人の心を知りたがるのか?

それは、『そうした方が人間関係などが円滑にする事ができるかもしれない』、と思うからだ。

他人が思っていることが分かれば、その人との接し方がわかり、無用のトラブルが避けられる。
他人が思っていることが分かれば、その人に何をすれば良いか、いけないかが分かる。

だが、他人の気持ちなど絶対に分からない。
「本当の事を言え!」と脅しても、それが本当の気持ちたとは分からない。まだ嘘を付いているかもしれない。

他人から出された"真実"(リアル)が本物か、どうかは分からないのだ。

こちらはそれを推測するしかない。

だから、人は"思い込む"、"決めつけ"る。
絶対に分からない他人の"リアル"がどうしても知りたいが、分からない。
ならば、『アイツは◯◯だ!』と思うしかないからだ。

それが違っていたら、それは本心を見せない他人が悪いのであって、そう"思い込まざる得ない"自分に非はないのだ。

この"思い込み"は非常に便利だ。

自分が『そうだ』と思えば『そう』であり、思い込まされたのは、他人の責任だ。
他人が圧倒的に悪く、自分は微塵も悪くない。

だが、他人の本心(リアル)がそこまで重要だろうか?
思い込むほど、他人の本心(リアル)は必要なのか?

社会に出れば、他人からの評価や思われ方が気になってしまう。
(自分は他から『◯◯な人だ』と思われたい!)と願う。
と、同時に(どう思っているの?)と探る。(絶対わからないのに…)

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何度も書いているが、プロレスはショー👯だ。

リング上で見せる"決着"は、レスラーの身体的、格闘技術の優劣を表すものではない。
リアルではない。

「何だよ、八百長かよ! …そんなら真剣勝負の闘いが観たいよ」

そう思うのならば、MMA(総合格闘技)の試合を観れば良い。

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MMAでなくも良い。

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ボクシング、相撲、レスリング…。
"八百長"ではない闘いはいくらでもある。

純粋に『どちらが強いのか?』をはっきり見せるのが"真剣勝負"(リアルファイト)だ。

"本当の強さ(気持ち)を知りたい!"のであるなら、絶対に分からない他人の気持ちと違って、格闘技はそれがわかる。
残酷なまでに判別する。
圧倒的なまでに、冷然と判明する。

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そこに"ドラマ"はない。
純然とした結果があるのだ。

『アイツは俺を馬鹿にしている!』という決めつけに対して、

「ええ、馬鹿にしてますよ」

と平然と言い返されたようなものだ。

…これって、何の意味があるのか?
また「そんな事思っていない」と分かったところで何の意味が?

昔、あるプロレス雑誌の編集者が『プロレスが八百長か否か、など次元が低い議論だ』と言っていたが、確かにそうだ。(当時はわからなかったが…)

我々が"リアル"を見せない社会で生きているのに、プロレスだけは『リアルでなければならない』という理由が無い。

またこれも何度も書いているが、プロレスの求めるものは、強さではなく、興奮(ヒート)だ。

リアルさえ、リアリティー(現実感)というプロレスの"一要素"、"一つのジャンル"になる。

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(猪木-アリは究極の"リアリティー"か?)

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俺がハマッていたUWFは、リアリティーを感じる(真剣勝負っぽい)"プロレス"だった。

リアルはプロレスにおいては、『少し味わいを変えたい調味料』ぐらいのものでしかない。

ならば、現実でも『他人の気持ちを知りたい』は、他人との関わり方の選択肢の一つに過ぎないのでは?

それをまるで、それがその他人の"全て"だと決めつけるのは意味が無い。

そう思えても、"そういう人がいる"というだけで、別に自分自身がどうこうする必要は無い。

プロレスにリアルは必要ではない。リアリティーが欲しい人間は、それを見て味わえば良い。

同じように現実にリアルも必要が無い。
リアリティーが欲しいかもしれないが、必ず手に入るとは限らないからだ。

だからと言って"思い込む"のは意味が無い。

分からないから、『◯◯かもしれないし、⬛⬛かもしれない』としておく。
それしかない。

それが、リアルだからだ。

無理やり"仕入れた"リアルが必ず自分の望むリアルでは無い。

望むものであるなら嬉しいが、そうでは無かったら?

傷つくのは自分だ。
だが、それは誰が誰を傷付けているのか?
自分で自分を傷付けていないか?

『アイツは俺を馬鹿にしている!』は自分で自分をぶん殴っている可能性がある。
だから、自分を"排除"してしまったのかも?

"思い込み"は危なく、それでいて甘美な薬だ。
思い込んでおけば、自分は傷つかない。

だが、思い込みは外れる事もある。
また無用に他人を攻撃するきっかけになる。

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(リアルが知りたい)のなら、それを見たら良い。…傷つく覚悟が必要だ。
(◯◯であろう)と思いたいのなら、思えば良い。…◯◯では無い可能性を考慮して。

自分を守りたい(自己愛)から、思い込んだのに、それにより自分を傷つける。

ならばやはり最初から思い込まない方が良いのではないか?

社会とは実に皮肉だ。
そして、自己愛とは実に虚しい。

だけど、我々は自分を愛さずにはいられない。