鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

プロレス心理学84 "しょっぱい"闘い

大学時代、よく麻雀をやった。(弱かったが…)
仲間でよくやったが、その中に絶対に麻雀をしないと友人がいた。
「何で麻雀しないの?」と尋ねると、

「だって、負けるもん」

と言った。それを聞いた別の友人が怒って聞いた。

「オマエは勝てる勝負しかしないのかよ?」

よく考えると、
"勝てる勝負しかしない"は悪い事ではない。

最大のギャンブル必勝法は『ギャンブルしない事』、つまり勝敗が分からない闘いに何も賭けなければ、損失はない。
勝ちは得られないが、負けは無い。

ならば、『勝てる勝負しかしない』はアリだろう。

だが、そんな勝負は社会には無い。
どんな勝負にも、負ける"可能性"が潜んでいる。

プロレスを『八百長』と罵る人間は、『プロレスは勝敗が決められているから八百長だ! 下らねぇ』と言う。

半分合っている。

何故なら、プロレスはショー👯だからだ。
勝敗を決めるものではなく、既に決められており、その闘いを見て、見せられて興奮や熱狂を得られるか、どうかがポイントだからだ。

イメージ 1


本当にショーなのか、しっかり確認したわけでは無いが、

勝敗を意識しないのなら、それはやはりショー(見せ物)なのだろう。

だが、『下らねぇ』かどうかは分からない。
『負けるのが嫌だ』と言うのであるなら、やはり"勝てる勝負しかしない"のが一番だ。

社会では勝敗が定まっていない闘いばかりだ。
プロレスはショー👯である事をオープンにしていない。
だから『プロレスは八百長だ』と主張するのは、アリだと思う。

しかし、"勝てる勝負しかしない"人からしたら、『プロレスは勝敗が決められているから下らない』とは言えない。
何故なら、その『下らない』闘いをしているのは自分自身だからだ。

イメージ 2


『勝てる』はまた"決め付け"だ。

"決め付け"はあくまで『可能性が高い』としか言えない。

どんな闘い、物事にも上手く行かない可能性はある。

これは前回の"辞める人"と同じで、問題が事に対し、自分に不利益を与える可能性があるのだから、それを考慮して生きていくしかない。

『負けたくない』と思う事は良い。
『勝てる勝負しかしない』のも良い。

だが、批判を恐れてはいけない。

『勝てる勝負しかしないのかよ!』と言われても、その通りだがら、「そうそう…」と言っておけば良い。

決め付けるのなら、"決め付け通り"の結果を期待していれば良い。

それを嫌がってはいけない。
逃げてはいけない。

それこそ"腰抜け"だ。

プロレスがショー👯だと思うのなら、レスラーやプロレス観戦して興奮する人は、"決め付け"を信じる、『腰抜け』の謗り(そしり)を物ともしない純粋な人ではないか?

イメージ 3


人は人と関わる中で、『勝ちたい』と願う。
誰ならも好かれ、尊敬視され、自分を中心に物事が進む事を"決め付け"る。
そうするのが、正しい事だと、"思い込む"。

だが、現実は違う。
自分がいつも"勝者"とは限らない。
自分が間違っていて、"負ける"可能性がある。

何故なら、現実はプロレスではなく、真剣勝負だからだ。

イメージ 4


"負ける"覚悟が無く、それを嫌がる腰抜けは、現実を生きていけない。

「負けるのは嫌だ」など思うから、常に自分が勝てる"環境"を望む。

誰もが自分に遠慮し、
誰もが自分を持ち上げ、
誰もが自分の為に"負けて"くれる人間関係を望む。

それはプロレスでは?
自分の為、自分だけの"プロレス"。 も物凄く格好悪いが、そうである事を誰もが望んでいる。

だから、あの友人は俺達と麻雀をしなかったのだ。

生きている限り、必ず"勝敗"が付いて回る。
人間が人間と関わる限り、そこに"差"を感じるからだ。

『自分は◯◯より幸せだ』

そう思えば勝った気になれる。また、

『自分は◯◯に比べたら劣っている』と思えば、負けた気になる。

それは"思い込み"だ。
自分で勝手に勝敗を付けているに過ぎない。
『気にしても仕方ない』と思えば良いのだが、目の前で分かる形で見せられたら、否が応でも"勝敗"を感じてしまう。

これをどうすれば良いのか?

仮に、どうも自分に反抗的な人間が近くにいたとする。
その発言、行動がどうにも鼻に付き、癪に触る。
そんな奴には、きっちり自分の方が"上"だと見せたい、と思う。

「オマエは負けで、俺の勝ちだ!」

そう、思い知らせたい。

だが、それは無理だ。
他人の気持ち、考えなんて、自分の思い通りにならないからだ。
自分はソイツに『勝ちたい!』と思っているのかもしれないが、相手はどうとも思っていないかもしれない。

争う気もない無い人間を無理矢理、争いの場に上げなくてはならない。

勝敗を付ける必要の無い勝負に無理矢理に勝敗を付ける。

そうした人間は、非常に迷惑な奴だ。

でも、勝敗を付けないと気が済まない。
自分が勝者とならないと気が済まない。

そうした"馬鹿"が世の中にはいる。
いや、ひょっとしたら自分がそうかも?

それなら『負ける(かもしれない)勝負はしない』というは、まだ理解できるてわはないか?

イメージ 5


勝敗があらかじめ決まっている(演じる側が…)プロレスは、広く言えば、勝敗を問わない。

現実の強さ、勝ち負けはあまり意味がないからだ。

"負け"があるとしたら、"しょっぱい"(つまらない)試合をした時だ。

それは戦ったレスラーどちらかの責任ではなく、レスラー同士の責任だ。

『果たしてその試合は面白いのか?』を主眼とするのなら、勝敗などはあまり意味がない。

これを人間関係に当て嵌めたら、『果たしてその人間関係は"楽しい"のか?』にならないか?

いがみ合い、罵り合い、怒鳴り合い、邪魔し合い…。
それは全て、現実という"リング"で盛り上がる為の方法だ。
"しょっぱい"試合を見せないための"パフォーマンス"だ。

そう思えば、嫌な現実を乗り越えられないか?