『何故、人はあんなに"思い込む"のか?』
俺が社会に出てから時々考えてしまう謎だ。
人は、思い込む。決めつける。
こちらが、『何故?』と思えるような"僅かな"出来事、"些細な"行動、"他愛ない"発言を物凄く過大に捉えて、とんでもない思い込みをしたりする。
何故だ?
しかし、そう疑問を浮かべる俺自身も思い込みや決め付けをしないことはない。
僅かな出来事、些細な行動、他愛ない発言から他人を『○○○だ!』などと思い込む。
『何故、そんな事で思い込む?』という問いは、『では、そう尋ねるお前は思い込みも決め付けもしないのか?』という逆の質問になって我々に帰ってくるのではないのか?
思い込みは禁物なのだが、人は必ず思い込みをしてしまう。他人を決め付けてしまう。
自分も、自分以外も…。
問題は、他人が自分も"思い込み通り"にならない時、"どうするのか?"、という事だ。
他人が自分の思ったような通りの人間である可能性は常にある。
もし、そうだとしても、
『そういう可能性もあるな…』『…そう思い込んだこちらが悪い』
と思えるか?
…残念ながら、俺が人生で関わって来た人間たちの中には、そうではない性格の連中が多くいた。
皆、他人が自分の思い込み通りになっていないと怒ったりした。
『何で、俺の思い込み通りではないのか?』
そう怒り出すのだ。
他人など自分の思った通りではないのは、"当たり前"なのだが、これに怒る"馬鹿"がよくいた。
そういう人間にとって、自らの思った通りでない人間は"裏切り者"であり。
『何故、俺(私)の思った通りの人間ではないのか?』
『俺を裏切るな!』
別に裏切っては無いのだが、他人が自分の思い込み通りでない事は、"思い込んだ自分の否定"であり、それは"裏切り"なのだ。
先日、新日本の飯塚高史が引退した。
本来は正統派レスラーとしてデビューしたが、地味さが災いし、あまりスポットライトを浴びず、サンボ留学などしながら、
2000年代の総合格闘技ブームの時には、格闘技っぽいプロレスをしたりしながら、最近では天山を"裏切り"、鈴木軍に参加していた。
正統派レスラーから、今ではキレまくる、"悪役"レスラーになってしまった。
引退試合の最後まで、そのまま。
古くからの新日本ファンからしたら、『一体、飯塚は何しているのか?』と、それこそ、"裏切られた"気持ちだろう。
…では、さて、裏切るのはダメなのだろうか?
他人からの"思い込み"は、あくまで自身が他人から"どう見えるのか?"という話であり、他人が勝手に決め付けてある。
「この、裏切り者が!」などは、
「そりゃ、お前が勝手に思い込んだだけだろ?」という話である。
よく考えてみたら、裏切り者でもなく、卑怯者でもない。
そういう人間"だった"、というだけのものである。
極めて迷惑な話である。
決め付け、思い込みは"迷惑"である。
他人がどういう人間かどうかなど、放っておかなければ良いではないか?
だが、何故か人は他人を決め付けだかる。
自分の都合の良いように、自分の思った通りの人間である事を"決め付け"る。
そして、そうではないと怒る。
「裏切り者!」と罵ってくる。
社会に於て、裏切り者は果たして、"裏切り者"なのか?
他人から自身がどう見えるか、を意識している人間もいれば、いない人間もいる。
だが、人は"裏切り者"に厳しい。
その人間を攻撃したがる。
「謝れ」「直せ」「嘘を付くな」「償え」と"精算"を強要する。
一体、なんの精算なのか?
自分の思った通りに、自分が生きる事や他人からの批評を気にせずに生きて何が悪い?
自分以外の他人は、自分以外の意図をもってして生きる。
それを何故、認めらない?
裏切りの精算を強要する人間は、自分の"支配下"に他人を置きたい、どうしようも無い人間でしかない。
「裏切るな」は『俺も思った通りの人間でいろ!』と強制だ。
"精算"を欲するならは、始めから思い込むな、と言いたい。
他人を見るとき、自分の思った通りの人間では無い可能性を見ておくべきなのだ。
裏切り者、飯塚の引退に、散々迷惑の掛けられてきた野上アナは涙していた。