ブログを移籍したので、改めて俺がUWF“信者”になった経緯を書いておきたい。
俺がプロレスにのめり込み出したのは中学生二年の頃。
同じ部活の奴が全日ファンだった事が起因だ。
そこから徐々にハマり、高校入学の頃にはすっかりプロレスになっていた。
そんな俺が「プロレスが好きだ」と言うと必ず言われたのが、
「プロレスって八百長なんでしょ?」
という言葉だ。
「違う!」と否定したいが、テレビで見るプロレスはそれを否定出来ない。
相手をロープに振ると、綺麗に跳ね返ってくる…。
倒れた相手をフォールすると、必ず3カウントギリギリ(2.9)で肩を上げる…。
そんな“都合の良い”話があるだろうか?
俺はプロレスを見た時から、(これは何か“決まり”のある“ショー”のようなものでは?)と思った。
プロレス側はオープンにしていないが、プロレスは“リアル”ではない。
そう思えた。
だから、「八百長!」の蔑視にも対抗できなかった。
そんな時に出会ったのが“UWF”だ。
(俺が知った時は、もう4つに分裂していたが…)
プロレス雑誌で見たそれは、リアル(真剣勝負)に思えた。
この世には“真剣勝負のプロレス”があったのだ!
俺はこれに激しくハマった。
何故なら、「プロレスなんて八百長だろ?」という侮蔑に対して、UWFは抗弁できたからだ。
「Uインター(UWFインターナショナル)を知らないのかよ? 真剣勝負のプロレスがあるんだぜ?」
そう言えたからだ。
だが、UWFインターナショナルは“プロレス”である。
おそらくだが、事前に“勝敗”が決められ、それに基づき、レスラーが“真剣勝負のっぽく闘う”のだろう。
近所のレンタルビデオで“Uインター”の映像を見て、俺はすぐに疑った。
(これって、“プロレス”ではないのか?)
柔道部の友人に腕ひしぎ十字固めを掛けてもらったが、痛くてとても耐えられない。
Uインターのレスラーは対戦相対のガードが下がっていても、顔に蹴りを入れない。
何故か?
プロレスだからだろう。
ここで俺はおかしな“理由”を思い付く。
「この人たち(レスラー)は、格闘技者を目指しながら、仕方なく“食べる為に”、プロレスをしているのだ」
と本気で思っていた。
今考えたら、全く以て奇妙な話だ。
UWF(Uインター)はプロレスだった。それは真剣勝負に見えるプロレスだった。
自分の信じたものを『八百長』だとは思いたくない。
筋書きありの“プロレス”だと薄々分かりながら、俺はそれを真剣勝負だと、信じ込もうとしていた。
…そんな俺の“UWF幻想”が消え去ったのが、例の“10・9”だ。
あれは“プロレスの変わった日”ではない。
“UWF幻想が終わった日”であり。
…そんな話を、以前書いたなぁ。
俺は“UWF信者”だった。
UWFは最強だ。最強の格闘技だ。最強はUWF(Uインター)のリングでのみ決められ、そのリングで最強である高田延彦は最強だ。
だが、違った。
UWFはプロレスだった。プロレスの結末は決まっている。リング内の闘いはプロレスであり、真剣勝負に見せる闘いをしていたに過ぎない。
高田は最強ではない。
だが、“UWFインターナショナル”のプロレスラーとしたら最強である。
高田延彦はプロレスラーである。
痛くない十字固めも、顔にこまない蹴りもプロレスだからだ。
信者とは素晴らしいものだ。
信じているモノの為なら、どんな不可解な事も、都合よく湾曲し、解釈して、正当化する。
誰かが、「あんなもん、“マガイモノ”だ」と言われても、信じる。
「目を覚ませよ」などと言われても、そう言った人間を勝手に“攻撃”してくれる。とても便利な存在だ。
俺がそうだった。
『UWFは真剣勝負のプロレス』だ。それを信じた。そう信じるには乏しいと、自身で分かっていたのに、自分の信じた“幻想”を信じた。
社会に出てから、そんな信者と、それを利用している恥ずかしいバカをたくさん見てきた。
信じるに足りない人間を信じて、ひたすら仕える信者。
信者に“崇められる”事を楽しみに、己の“小さな王国”を堅守したがるバカ。
そして、人は信じたいモノを信じる。
Uインターを“プロレス”だと、分かっていても、“リアル(真剣勝負)”だと思いたかった。
だから思う。
社会とは、プロレスなのではないのか?
社会に出てから嫌な事ばかりだ。今もである。
信じていたものが、嘘だと分かっても、もう信じるしかない。
『人は信じたいモノを信じる』である。
己の内側から沸く怒りを信じる人間は、やはり、自分の信念を信じるのだ。
UWFは“リアル(真剣勝負)”という最強を見せて、俺を信じ込ませていた。都合よく、事実を曲げて信じた。
プロレスはプロレスだ。それ以上でも無く、真剣っぽく見えようがプロレスだ。
幻想から覚めたからといって、俺はプロレスが嫌いにもならなかったし、“U系”団体のプロレスも嫌いにならなかった。
それがプロレスならば、プロレスとして楽しめた。
何故なら、興奮(ヒート)出来ていたからだ。
プロレスの基準は『興奮するか、しないか?』である。
UWFもプロレスとなれば、興奮(ヒート)出来る。
こうして今も、プロレスの事を書いているし、常に観てきた。
少し離れた時期(02~08年)もあったが、俺はプロレスが大好きだ。
とある格闘技好きな作家も言っていたが、
UWFがプロレスだったとしても、それはプロレスが格闘技に移行する際に、絶対に必要だった団体
だったのだ。
俺がこのブログのこの項で書きたい(書いてきた)事は、『誰もが何かの“信者”であり、信者とは何であり、その先に何があるのか?』である。
誰かを、何かを信じる事は悪い事でも無いし、禁止させる事でもない。
だから、誰もが何かを信じている。信者になっている。
そして、その後はどうなるのか?
信者だった事で、人間は、我々はどうなるのか?
UWF信者だった俺は、信者だった事に後悔は全く無い。
“真剣勝負のプロレス”など無かったが、Uインターがプロレスだとしても、興奮出来た。
それは、プロレスだからだ。
俺はプロレスが大好きだ。
プロレスは真剣勝負ではない。実力を競うものでも無い。プロレスはショー👯♀️である。
勝敗は闘う前から決まっていて、レスラーは二人で観客を興奮させる為に、それを行う。
Uインターもプロレスだ。ショー👯だ。
UWF(Uインター)の信者だった先には、やはりプロレスがあったのだ。
では、社会に生きる我々の先には何があるのか?
それを知りたい。
何かを信じて、その先には何があるのか?
そして、そうなる心理は何故なのか?
プロレス=社会、なのなら、我々が信じた社会は何を見せてくれるのか?
プロレス同様、興奮(ヒート)するのか?
…それが知りたい。