鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

4/6 責任と想いやり

明日、『緊急事態宣言』が出されるようだ。

 

「遅い!」とか「何を躊躇していたんだ!」と憤る声を多く聞く。

確かに『遅』と思うし、安部総理含め政治家は『何を迷ってんだ?』と思う。

 

これだけ全国(特に大都市)でコロナの感染が拡大しているのだから、あまり強制力はないにしろ、出すべきだという意見は間違っていない。

 

俺も東京の『外出自粛から一週間後、感染の広がり具合が落ちるかも?』と期待したが、広がるばかりだ。

『緊急事態宣言』は当然か?

 

だが、ただ「出せ、出せ!」という声に手離しで喜べない。

 

なぜ、政治家は緊急事態宣言を嫌がるのか?

 

国民目線から見たら、それは怠慢にしか見えないのだが、政治家から見たら、それを躊躇したがる気持ちは十分に分かる。

 

あまり強制力の無い『緊急事態宣言』だが、出されたら、それを理由にいろいろな経済活動がストップする。 

そしたら、皆、何と言うか?

 

『“宣言”が出たから、会社が潰れそうだ。政府よ、補償しろよ!』と言うだろう。

 

その責任を被るのが、嫌なのだ。

「そんなもの、日本の危機なのだから仕方ないだろ?」と思うかも知れないが、それで後々、俺たちの税金が上がったら?

『コロナ復興税』などとして、増税が決まったら?

 

先の言葉を借りれば、

『補償したのだから、国にお金👛が無いのだ。国民よ、増税は仕方ないだろ?』

となる。

 

その責任が総理と政治家にはある。

「金出せよ」「金くれよ」というのは簡単だ。「宣言を出せよ」というのも簡単だ。

 

だが、その先に責任がある。

俺たち国民は、請求し、批判するが、『責任は?』と問われると、黙るしかない。

 

宣言を出すことで、発生する責任を取るのは、宣言を出した総理や政治家だ。

“傍観者”で、“批判者”でしかない俺たちは好き勝手言って、責任は取らない。

 

「宣言、出せ、出せ!」という奴等に「じゃ、責任、あんたらが取るの?」と聞きたい。

「嫌だよ 」「何で?」というなら、「遅い」という権利は無い。

 

だが、切実な問題として、観光地、小売店、中小企業はギリギリだ。

補償をしないとやっていけない。

 

そして、宣言はしないといけない状態でもある。

 

「責任、責任」と言っていたら、物事は前に進まない。

 

責任を取るのは、嫌だ。

だが、お金👛は欲しい。

 

では、我々はどうしたら良いのか?

この矛盾をどうしたら良いのか?

 

それは他人の事を“想う”しかない。

責任を取ることを厭わず、お金はそれほど欲しがらない。本当に金が欲しい、必要としている人に必要なだけ、配る。

 

弱い人間を“正しく”判断する。そして、助ける。

“助ける”ように動く。

 

他者を“想いやる”気持ちを持つしかない。

自分だけは助かりたい、と思うことは悪い事ではない。

だが、それは自身で抑える事ができる。

 

「~して欲しい」は今必要か?

そして、「責任を取りたくない」のなら我慢する。

もしくは、自分が他人の為に責任を取る。

そういう事を厭わない気持ちを持てるかが、これからポイントになってくるのかもしれない。

 

俺は、できるかな?