先日、『文春オンライン』に“カリスマ”編集者として
メディアにも出ていた箕輪厚介さんの記事が出ていた。
それは、簡単に流れを述べると、
『ある女性ライターがエイベックスの松浦社長の自伝を書いて、幻冬舎の箕輪氏と書籍化を進めていたが、社長の見城氏が反対し頓挫した』
…というものである。
これは本当になのだろうか?
俺は、少し怪しんだ。
何故なら、この記事中の箕輪氏は、“上司”であり、社長の見城徹氏に意見を聞いたり、見城氏の意向にそうように行動しているからだ。
見城徹氏と言えば、俺でも知っている“カリスマ”編集者であり、箕輪厚介氏からしたら、“所属”する組織のトップである。
だが、彼がいろんなメディアで語る『働く姿勢』は既存の考えから逸脱し、常に新しい価値と己の基準で考える姿だった。
俺は、この人があるイベントに短パンと缶酎ハイ片手に来ていた見て、かなり仰天した。しかも、髪のには金のメッシュが入っていた。『仕事と遊びの区別もつかないのか、コイツ?』と思ったが、話を聴くと、かなり納得できたり、共感できる部分があった。
しかも、それで“副収入”が本収入の何倍もある。
かなり“できる”男であり、“既成概念”を打ち破る稀有な編集者、だと思っていた。
『新しい働き方』『既存概念を打ち壊す働き方が出来る人間』とも思えた。
しかし、この記事の中の箕輪厚介は、見城“社長”の顔色を見て自伝の出版を決めたり、社長にあれこれと“お伺い”を立てて動いている、一般的な“社会人”にしか見えない。
非常な“組織人”であり、圧倒的に“既成概念”の中で仕事をしている。組織の“序列”に従っている人間である。
今の彼からしたら、例え“カリスマ編集長”(見城)が『ダメだ!』といっても、それが自分の価値基準で“アリ”なら、出版できるようにしてしまいそうな気がするのだ。
それが、見城“社長”からの“鶴の一声”で断念…。
こんなものなのか?
あまりにも今の彼と違い過ぎる気がした。
だが、よく考えてみたら、当たり前かもしれない。
『カリスマ編集者』とか『副収入で稼ぐ男』『新しい働き方だ』と言っても、彼はやはり『幻冬舎』という“大看板”の中の“組織人”である。
組織の理論に従い、“上”の顔を見て行動するのは当たり前だ。
しかも、この話は2016年辺りの事らしい。
俺の記憶が確かなら、箕輪厚介氏が騒がれ出したのは、2018年頃だと思う。
この頃(2016年)の箕輪厚介氏は、非常に“良識的”で、“組織の序列に従う”ような人間だった。
そして、そこから“急に”あんな風になり、“副業だ、短パンだ、酎ハイだ”、になったのか?
つまり、これは箕輪厚介という人間の“実像”が見えた話ではないのか?
彼は実はかなり組織や会社、既存の権力に従っていきている人間ではないのか?
『副業』『短パンに缶酎ハイ』は、彼を“そういう風”に見せたい人々により、そう見せているだけなのでは?
つまりは、“作られたカリス”では?
2016年頃から、『新しい働き方』『組織の中にいても自由に動く人材』をアピールしたい人間(見城氏?)によって、“作られた”人間なのではないのか?
普段の彼は極めて組織に従順で、既存概念を壊す事など出来ない人間では?
箕輪氏は、元々チャラくて編集部でも“浮いた”存在だった。
それに目をつけた人間が“利用”したのではないか?
…断っておくが、
別にそれが『悪い』とか、『騙された』と訴えたいわけではない。
また、彼が嫌いなわけではない。
“カリスマ”など、作られるものであり、カリスマをカリスマと思うのは、いつも“我々”の思い込みだ。
よく考えてみたら、『副業で何億』とか、『仕事に短パン、缶酎ハイ』『金髪』などおかしすぎる…。
ここから分かる事は、『既存概念から脱却』する難しさ、だと思う。
『自由だ』『新時代だ』『副業だ』と言っても、それは誰かの“意図”の上で“見せている”だけの話かもしれない。
それは、それでアリだとも思うが(プロレス…)、『本当に自由はあるのか?』『本当に新しいのか?』を我々は確実に捉えないといけない。
見極めが必要という事だ。
…ちなみに、箕輪厚介氏がそのライター(女性)に“セクハラ”した件は、見た目通りの“チャラさ”だから、別に何とも思えない。
そういうバカなのだろう。真偽も不明?(LINEが出ていたが…)だから。