鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

対応時々管理…

 昨日の出勤時、通り雨が降った。

 原付🛵で出勤していた俺は心地よかった。

 何せ、連日のこの暑さ🥵だ。顔に当たる雨粒が冷たくて良かった。

 子供の頃、夏になるとこんな通り雨がよくあったのだが、近年は全く無い…。

 

で、また思い出した事がある。

 

 皆さんは『晴れ時々ブタ🐷』という絵本(?)を知っているだろうか?

 

話の流れは、

日記を書くのを面倒くさがった主人公が、その日の日記を前日に書いてしまう。

すると不思議な事に、次の日、その通りの天気になる。

また前日の天気を日記に書く。するとまたその通りに…。

 それを続けて、書く事自体が面倒になった主人公は、日記に『晴れ時々、ブタ🐷』と書いてしまう。

 すると、次の日、何と本当にそうなってしまう…。

 

……というような内容だった気がする。

 

初めてその本を読んだ俺の感想は、(…そんなに面白いかな?)だった。 

 日記に書いた天候が次の日に実現したところでそれがどうかしたのか?

 そう思ったのは、その『晴れ時々ブタ』が何故か、人気になり、続編やアニメ化していたからだ。

 俺には、それが不思議で仕方無かった。

 天候を自分の思い通りに出来るからとして、それが何なのか?

 

 そして、学生になった頃。

 梅雨のある頃、雨天が続いた時に友人と何故か、その本の話になった。

友「あの話、良かったよな~」

俺「…はぁ。そうか?」

友「だって、自分の思い通りの天気にできるんだぜ?」

俺「…それが?」

 

 もう絵本など読む年齢では無かった事もあり、昔流行った“ファンタジー”な物語などに忘れていたし、興味も無かった。

 第一、天候などを自分の思い通りにして、何になるのか?

 

 だが、俺はこの友人の“憧れ”を社会人になってから理解できるようになる。

 社会に出ると、自分の思い通りにならない事ばかりだ。

 “ほとんど”と言っても良い。

 自分がコントロールできる事など僅かしかない。

 そんな中、もしも『天候を自分の思い通りに出来たら?』と考えたくなるのが理解出来た。

 人は、自分以外のものをコントロールする事に、無上の喜びを感じる生き物だ。

 

 人は、自分が思い通りに出来ない物事が目の前に現れた場合、どうするのか?

 

 天候がそれだろう。

 雨が降れば、雪が積もれば、雷が鳴ったら、晴れたら、我々はその天候状況によって対応する。

 天候は自身で管理できないからだ。 

 天候に対し、俺たちにできるのは、対応する事のみである。

 『晴れ時々ブタ』に対し、幼い俺が興味を持てなかったのは、それがあまりに荒唐無稽な話だと思ったからだ。

 “ファンタジー”な物語が嫌いだったわけではない。

 しかし、天気(天候)は絶対だ。誰もコントロールなど出来ない。そこに“出来たら?”などという話をされても、心を動かされなかった。

 

 これは、1つの物事に対して、『対応する』か、『管理しよう』とするか、という事ではないか。

 

 今の“新型コロナ”に対する我々の動揺と似ていないか?

 

 毎日『感染者◯◯◯人!』と報道される。

 既に慣れてしまった感じもあるが、その感染者数をどう捉えるか。

 もう“コロナ”は我々の近くにある。

 誰もが感染するリスクがある。

 こう書いている俺も、もちろんある。

 

 こうなるとすぐに『ワクチンだ』とかクラスターを探せ』『感染経路を探れ』になる。

 それは、この病気を“管理しよう”としていないか。 

 それも大事だ。

 だが、すぐに管理出来るものなのか。

 おそらく長い時間が掛かるだろう。

 管理の前に、“対応”ではないたろうか。

 

 “雨が降る”のならば、“傘をさす”、“雨が止むのを待つ”、“あえて濡れる(?)”と対応する。間違っていたり、その時は正しい対応ではなかったりするだろうが、まずは“対応”。そして同時に“管理”。

 

 『感染者が増えている』

 ならば、感染しない事も考えるが、まずは“感染してしまったら?”を考えるべきではないか。

 病院の収用キャパは、かなり重要な数字だと思う。

 もう“かかるかも?”ではなく、“かかったら?”で動くべきでは?

 それでもワクチンは早く完成して欲しいが…。

(ロシアでは完成?)