鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

プロレス心理学117 一瞬

公園に来ている。

久しぶりに休みで、近所の公園に来ている。


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ここに来ると思い出す。


8年程前(2012年)の同じ時期、俺はここで絶望を感じていた。


この約1年半前(2010年1月)、俺は脳腫瘍を発症して治療生活に入った。

2度の開頭手術を受けて、腫瘍を除去出来た俺が社会復帰をし始めたのが、8年前のこの時期だった。


俺は、世の中に怒り、絶望しかけていた。


……思い出してみる。


1度目の手術の直前、俺の元に当時勤めていた某公的年金機構から“準職員採用試験”の『不採用通知』が来た。

俺は、脳腫瘍が判明する前に採用試験を受けていた。

その“不採用”(落選)の通知が、病室で不安になっている俺に来た。


(…何もこんな時に💢)


俺は頭に来た。手術前で平静にしていなければならないだろうが、この通知を受けて冷静にはいられなかった。


これから頭を割って手術する人間、“死にかける人間”(生きていたが…)にこんな通知を送るのか?

コイツら(年金機構)、俺の事など何とも思っていないのでは?


そう思うと、悲しくて怒りが沸いた。


だが、よく考えてみれば当然か、と思った。


全国で採用試験を受けた職員など何人もいるだろう。その中の一人が脳腫瘍になったとして、考慮などするのか?

むしろ、それが分かったら、即刻“落とす”だろう。


また、俺は“アシスタント職員”という職員の中でも最下層のほぼアルバイトに近い職員。

そんなヤツの事をいちいち気にするだろうか?


俺が採用されたのは、その時から2年前。それまで勤めていた地方求人誌をクビになった為、“場当たり”的に選んだ職だった。

そんな俺を会社(機構)は大事に扱うか?


そして、脳腫瘍にかかろうが、かかるまいが、その前から俺の“不採用”は決まっていたのではないか?

つまり、脳腫瘍は関係無し。

ただ事務的に『不採用』の通知を送付しただけ。


それらの事を考えると俺は、「…ま、当然かな?」と納得した。腹は立ったが、会社(機構)からしたら当たり前の対応と処理をしただけである。


誰が悪いのか?

と、尋ねたら、そもそも採用試験に受からない俺が悪い、である。


さらに俺は思っていた。

「大丈夫。俺は大丈夫。きっとうまく行く。良い“未来”がある」

そんな風に漠然と思っていた。

根拠は無い。


そして、1度目の脳腫瘍は16時間もかかり、本当に死にかけた。

麻酔から目を覚ますと、言葉は出せなくなり、視界も変わっていた。

もう採用試験どころの話ではなかった。


その手術の“後遺症”はリハビリで次第に回復した。

しかも、会社(機構)は俺を職場復帰させてくれた。

一時的に俺は会社(機構)に戻る事(アシスタント職員として…)が出来たのだ。


俺は、この事は今でもありがたく思っている


そして、2回目の手術に挑んだ。

俺の頭に出来た腫瘍は巨大であり、1度の手術では取りきれなかったのだ。横浜で放射線治療などをしてから、俺は2度目の手術に挑んだ。


その甲斐があってか、今度(2度目)は3時間程で終わった。

俺の頭から腫瘍は除去された。


リハビリなどは残っていたし、言葉などは不自由なままだったが、俺は退院した。


そして、会社(機構)は“契約期限”が迫っていた。アシスタント職員の契約年は3年であり、その3年目の期限が間近に迫っていたのだ。


そして、俺は契約を解除された。


俺は別に嫌がらなかった。粛々と受け止めた。


何故なら、俺は思っていたからだ。


「もう俺は大丈夫。まだ30代半ば。俺は“やれば出来る人間”だ。また新しい職場でバリバリと働けさ…。準職員にはなれなかったけど、問題無いさ」


俺はそんな風に思っていた。本当に思っていた。自分は“優秀”“出来る人間”で、“引く手あまた”だと…。


今から見たら『愚か』✨としか言えない。


会社(機構)を解除された直前から、俺は再就職先を探したが、一向にみつからなかった。どこも俺を採用しない。


病院でのリハビリは辞めて、自分でスポーツジムに通いリハビリを続けていた。体力は戻り、体の機能は回復していた。


だが、職が見つからない。


様々な正社員求人に応募した。

で、断られた。

運良く面接になっても、履歴書の『脳腫瘍』の記載を見られて、断られた。

とある人から「脳腫瘍と、書かない方が良い」とアドバイスを受けて、脳腫瘍と書かないようにした。

だが、そうすると面接した人間は俺の言葉の不自由さを指摘してくる。


面「君、声おかしくない?」

俺「…実は脳腫瘍になりまして。…もう今は…」

面「……」(がっかり顔)


それで“終わり”である。全く採用されない。

あまりにも受からないので、アルバイトも視野に入れて、様々なバイトにも応募した。

求人誌を読み漁り、電話で応募した。

本当はイヤだったが、自分が働いていた求人誌も手に取り、目ぼしい求人に応募した。


それでも、全て断られた。

 

俺は優秀でもなければ、出来る人間でもなかった。

30代半ばの病み上がりのめんどくさいバカでしかなかったのだ。


多少の蓄えがあったが、3月末に機構を辞め、9月になる頃には俺の貯金は危なくなって来た。


そんな俺は、どうしょうもなく、秋晴れのこの公園で絶望した。

雲が高かった。

気温はこんなに暑くなかった。

 

だが、俺はどうしようもない気持ちでいた。

(こんなはずじゃないだろ?)

だが、そんなはずデしかなかったのだ。

 

そして、会社(機構)を解除直前のある“出来事”を思い出していた。


俺の契約解除が迫ったある日、2度目の手術後で自宅療養中の俺は、お世話になった機構の課長に電話して“お別れの挨拶”をした。

一度、職場に戻してくれた事を俺は有り難く思ってはいた。


その時、課長が俺に「7月に準職員の応募があるから…」と告げた。

俺はそれを(そうなんすか?)と思って聞いていた。


というのも、機構を解除されても、すぐ次の仕事が見つかると思っていたからだ。

(…もうそちらには…)というのが俺の本音だった。


また、当時、まだ俺が言葉は回復途中であり、不明瞭さが大きかった(…今と変わらない!?)、体力もまだ戻っていなかった。

その状況で、“準職員”と言われても心が動かなかった。


さらには課長の“言い方”も少し気になっていた。

『7月に準職員の応募があるよ』というと、その先を言わなかった。

「応募してみたら?」とか「また働こうよ」などとは言わなかった。


課長からしたら、生意気でコミュニケーションに欠け、他人と軋轢を生みやすい、しかもアシスタント職員の俺など、“気にならない”存在なのだろう。

そう思った。

つまり、「応募したけりゃすれば?」と俺には聞こえた。

(俺は優秀だ)と“おかしな思い込み”をしていた俺は、(…ま、いいさ)と思い、電話口では課長に「…はぁ、あ、あり、りがどう、ごござざいます」と適当に返答した。その7月の準職員に応募する気持ちはさらさらなかった。


そして、7月。

全く再就職先が決まらない俺がハローワークで見たのは、俺のいた事務所からの“準職員応募”だった。


これに俺はカチン💢と来た。


普通、準職員採用は各地方事務所を管轄する“センター”が取り仕切る。

それを何故、事務所から応募?

それはつまり、この求人は俺に向けての“求人”であるに違いない。

つまり『鈴木君、ほら、また働こうよ』である。


俺はこれに腹が立った。


俺には『ほら、鈴木、また働かせてやるよ』とか『どうせ、これに食いついて来るんだろ?』、『お前なんて、他じゃ雇ってもらえないだろ?』、さらには『お前みたいな“病み上がり”、雇うヤツなんていないよ』に思えたのだ。

だから、課長は「応募したら」などと俺を誘わなかったのだ。

心の内では(コイツ、どうせ“こちら”が面倒見るしかないだろ、こんな感じじゃ…)だったのだ。


(…この野郎💢、ナメやがって!💢)


俺はこの求人には絶対応募しない事を固く誓った。

そして、早く他の会社に再就職して、またバリバリと働く事を誓った。


…そこかは2ヶ月が過ぎた。


俺は全く採用されず、正社員はおろかアルバイトにも落ち、最低な気持ちで近所のこの公園で佇んでいたのが、8年前の俺だった。

 

……あれからさらにいろんな事があった。

嬉しい事も、悲しい事も、楽しい事も、頭に出来た来ることもあった。  

 

俺は準職員にはならず、“フリー”として生きている。

相変わらず貧乏だ。

絶望感は無いが、たまに怒ったりしている。


何でこんな事をここ(公園)で思い出しているのか、と言えば、先日“知り合い”とLINEしていた時の事だ。


“ソーシャルディスタンス”の話題になり、俺が『俺は今も口が不自由だから、ディスタンスも距離も関係ないかな?』とその“知り合いに”メッセージを送った。


すると、そこから返事が無くなった。

(寝た? 忙しくなった?)

そう思って、それさら俺はメッセージを送っていない。当然、向こうからも何の返信も来ない。

不思議だったが、俺も気にもしなかった。


だが、数日がたった今思う。


ひょっとして、この“知り合い”は思ったのかもしれない。


(…コイツ、まだ病気の事、気にしてんのか?)


そう呆れたのかもしれない。

この知り合いは俺の状況、病気の事を知っている。

 

あれ(2度目の手術)から8年が過ぎた。

再発はしていない。

言葉は不自由だが、全く話せない事もない。車や原付も運転するし、働いてもいる。たまには酒も飲んだりと通常の生活を送っている。

 

なのに、俺の心の中にはまだ某年金機構から受けた“恨み”などが渦巻いていて、病気で言葉が不自由になった事を気にしている。


それを見透かして、呆れたのではないか?


そんな風に思えてきた。だから、俺に返信する気にもならなくなったのではないか?


俺の書く記事、小説、このブログでも俺は度々と病気(脳腫瘍)の事や、後遺症(言葉が不自由)の事を書いている。

自分に起きている(起きた)事を“ネタ”にしている。

何故なら、それが俺だからだ。

病気になった事、会社(求人誌)をクビになった事、声が不自由な事…全てが、今の俺だ。

それを書いて、誰に文句を言われる筋合いも無い。


だが、俺はいつまで“そこ”にいるのだろう?


この前、『ワールドプロレスリンを観ていたら、デビューして初めてベルト(neve)を獲った新日のYOSHI-HASHIが言っていた。


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確かに物事が切り替わるのは、一瞬だ。

病気も、解雇も、手術も、回復も、全て一瞬で起こった。

今のこの瞬間にあるものが、もう次の瞬間には消え失せてしまう…。

安心感も、希望も、恋しさも、変わってしまう。

寂しさも、怒りも、絶望も、変わってしまう。


だから、みんな“良い方”に変わりたいと思う。

一瞬で、自分の描いた希望に、現実を変えたい。

 

俺もそうだ、

もっと稼ぎたい。幸せになりたい。誰かに慕われたい。世話になった人を安心させたい。

そんな風に“変えたい”


だが、それは真に“変えたい”、もしくは“変わる”と思っている人間に訪れるのではないか?


ある格闘家が言った。

「過去を否定してはいけないの思う」


人は時間を積み重ねて生きている。

それを過去という。

だから、過去は消せない。

思い出して、懐かしんだり、それを糧に生きるのは良い。


だが、それに“囚われて”はいけないのではないか。

「気にしていないよー」などと言いながら、今も“過去”を思い出すと怒りが沸き上がる俺は、やはり過去に“囚われて”いるのかもしれない。


“変わりたい”と願うのなら、過去にこだわっては変われない。

変わりゆく“一瞬”についていけないのではないか?


まだ病気の事を出してしまう俺に、“知り合い”は“怒りに囚われている俺”を見たのではないか?


“そこ”にいる限り、俺に新たな“一瞬”は来ない

乗り越える努力も必要だが、過去への思いのままから変わる事も大事だ。


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“変わりたい”のならば。

 

「アンタ、まだ“そこ”にいるのか?」

「いい加減、それ言うの止めたら」

 

それを、あの“知り合い”は言いたかったのでは?

 

俺はこれからも病気(脳腫瘍)の事や、会社(機構)や“パワハラ上司”の事をガンガン書いていこうと思う。

 

だが、そこにはもういない。

それは過去だ。

過去は否定しない。あったのだから、否定しようがない。その時に感じた怒りや焦燥感は本物だ。 

 

だが、それに囚われてしまうのはよそう。

バカにして、思い出して、ネタにして、笑い飛ばしてやれ。(その時の俺も…)


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その“知り合い”が教えてくれたのかも、『そろそろ“次”へ行けば?』と…。『辿り着いたら?』と…。

 

一瞬はいつも俺のそばにある。

一瞬で変わる。

悪く変わる事もあれば、良くなることも。

一瞬なのだ。

一瞬で変わる。