公園に来ている。
久しぶりに休みで、近所の公園に来ている。
ここに来ると思い出す。
8年程前(2012年)の同じ時期、俺はここで絶望を感じていた。
この約1年半前(2010年1月)、俺は脳腫瘍を発症して治療生活に入った。
2度の開頭手術を受けて、腫瘍を除去出来た俺が社会復帰をし始めたのが、8年前のこの時期だった。
俺は、世の中に怒り、絶望しかけていた。
……思い出してみる。
1度目の手術の直前、俺の元に当時勤めていた某公的年金機構から“準職員採用試験”の『不採用通知』が来た。
俺は、脳腫瘍が判明する前に採用試験を受けていた。
その“不採用”(落選)の通知が、病室で不安になっている俺に来た。
(…何もこんな時に💢)
俺は頭に来た。手術前で平静にしていなければならないだろうが、この通知を受けて冷静にはいられなかった。
これから頭を割って手術する人間、“死にかける人間”(生きていたが…)にこんな通知を送るのか?
コイツら(年金機構)、俺の事など何とも思っていないのでは?
そう思うと、悲しくて怒りが沸いた。
だが、よく考えてみれば当然か、と思った。
全国で採用試験を受けた職員など何人もいるだろう。その中の一人が脳腫瘍になったとして、考慮などするのか?
むしろ、それが分かったら、即刻“落とす”だろう。
また、俺は“アシスタント職員”という職員の中でも最下層のほぼアルバイトに近い職員。
そんなヤツの事をいちいち気にするだろうか?
俺が採用されたのは、その時から2年前。それまで勤めていた地方求人誌をクビになった為、“場当たり”的に選んだ職だった。
そんな俺を会社(機構)は大事に扱うか?
そして、脳腫瘍にかかろうが、かかるまいが、その前から俺の“不採用”は決まっていたのではないか?
つまり、脳腫瘍は関係無し。
ただ事務的に『不採用』の通知を送付しただけ。
それらの事を考えると俺は、「…ま、当然かな?」と納得した。腹は立ったが、会社(機構)からしたら当たり前の対応と処理をしただけである。
誰が悪いのか?
と、尋ねたら、そもそも採用試験に受からない俺が悪い、である。
さらに俺は思っていた。
「大丈夫。俺は大丈夫。きっとうまく行く。良い“未来”がある」
そんな風に漠然と思っていた。
根拠は無い。
そして、1度目の脳腫瘍は16時間もかかり、本当に死にかけた。
麻酔から目を覚ますと、言葉は出せなくなり、視界も変わっていた。
もう採用試験どころの話ではなかった。
その手術の“後遺症”はリハビリで次第に回復した。
しかも、会社(機構)は俺を職場復帰させてくれた。
一時的に俺は会社(機構)に戻る事(アシスタント職員として…)が出来たのだ。
俺は、この事は今でもありがたく思っている。
そして、2回目の手術に挑んだ。
俺の頭に出来た腫瘍は巨大であり、1度の手術では取りきれなかったのだ。横浜で放射線治療などをしてから、俺は2度目の手術に挑んだ。
その甲斐があってか、今度(2度目)は3時間程で終わった。
俺の頭から腫瘍は除去された。
リハビリなどは残っていたし、言葉などは不自由なままだったが、俺は退院した。
そして、会社(機構)は“契約期限”が迫っていた。アシスタント職員の契約年は3年であり、その3年目の期限が間近に迫っていたのだ。
そして、俺は契約を解除された。
俺は別に嫌がらなかった。粛々と受け止めた。
何故なら、俺は思っていたからだ。
「もう俺は大丈夫。まだ30代半ば。俺は“やれば出来る人間”だ。また新しい職場でバリバリと働けさ…。準職員にはなれなかったけど、問題無いさ」
俺はそんな風に思っていた。本当に思っていた。自分は“優秀”で“出来る人間”で、“引く手あまた”だと…。
今から見たら『愚か』✨としか言えない。
会社(機構)を解除された直前から、俺は再就職先を探したが、一向にみつからなかった。どこも俺を採用しない。
病院でのリハビリは辞めて、自分でスポーツジムに通いリハビリを続けていた。体力は戻り、体の機能は回復していた。
だが、職が見つからない。
様々な正社員求人に応募した。
で、断られた。
運良く面接になっても、履歴書の『脳腫瘍』の記載を見られて、断られた。
とある人から「脳腫瘍と、書かない方が良い」とアドバイスを受けて、脳腫瘍と書かないようにした。
だが、そうすると面接した人間は俺の言葉の不自由さを指摘してくる。
面「君、声おかしくない?」
俺「…実は脳腫瘍になりまして。…もう今は…」
面「……」(がっかり顔)
それで“終わり”である。全く採用されない。
あまりにも受からないので、アルバイトも視野に入れて、様々なバイトにも応募した。
求人誌を読み漁り、電話で応募した。
本当はイヤだったが、自分が働いていた求人誌も手に取り、目ぼしい求人に応募した。
それでも、全て断られた。
俺は優秀でもなければ、出来る人間でもなかった。
30代半ばの病み上がりのめんどくさいバカでしかなかったのだ。
多少の蓄えがあったが、3月末に機構を辞め、9月になる頃には俺の貯金は危なくなって来た。
そんな俺は、どうしょうもなく、秋晴れのこの公園で絶望した。
雲が高かった。
気温はこんなに暑くなかった。
だが、俺はどうしようもない気持ちでいた。
(こんなはずじゃないだろ?)
だが、そんなはずデしかなかったのだ。
そして、会社(機構)を解除直前のある“出来事”を思い出していた。
俺の契約解除が迫ったある日、2度目の手術後で自宅療養中の俺は、お世話になった機構の課長に電話して“お別れの挨拶”をした。
一度、職場に戻してくれた事を俺は有り難く思ってはいた。
その時、課長が俺に「7月に準職員の応募があるから…」と告げた。
俺はそれを(そうなんすか?)と思って聞いていた。
というのも、機構を解除されても、すぐ次の仕事が見つかると思っていたからだ。
(…もうそちらには…)というのが俺の本音だった。
また、当時、まだ俺が言葉は回復途中であり、不明瞭さが大きかった(…今と変わらない!?)、体力もまだ戻っていなかった。
その状況で、“準職員”と言われても心が動かなかった。
さらには課長の“言い方”も少し気になっていた。
『7月に準職員の応募があるよ』というと、その先を言わなかった。
「応募してみたら?」とか「また働こうよ」などとは言わなかった。
課長からしたら、生意気でコミュニケーションに欠け、他人と軋轢を生みやすい、しかもアシスタント職員の俺など、“気にならない”存在なのだろう。
そう思った。
つまり、「応募したけりゃすれば?」と俺には聞こえた。
(俺は優秀だ)と“おかしな思い込み”をしていた俺は、(…ま、いいさ)と思い、電話口では課長に「…はぁ、あ、あり、りがどう、ごござざいます」と適当に返答した。その7月の準職員に応募する気持ちはさらさらなかった。
そして、7月。
全く再就職先が決まらない俺がハローワークで見たのは、俺のいた事務所からの“準職員応募”だった。
これに俺はカチン💢と来た。
普通、準職員採用は各地方事務所を管轄する“センター”が取り仕切る。
それを何故、事務所から応募?
それはつまり、この求人は俺に向けての“求人”であるに違いない。
つまり『鈴木君、ほら、また働こうよ』である。
俺はこれに腹が立った。
俺には『ほら、鈴木、また働かせてやるよ』とか『どうせ、これに食いついて来るんだろ?』、『お前なんて、他じゃ雇ってもらえないだろ?』、さらには『お前みたいな“病み上がり”、雇うヤツなんていないよ』に思えたのだ。
だから、課長は「応募したら」などと俺を誘わなかったのだ。
心の内では(コイツ、どうせ“こちら”が面倒見るしかないだろ、こんな感じじゃ…)だったのだ。
(…この野郎💢、ナメやがって!💢)
俺はこの求人には絶対応募しない事を固く誓った。
そして、早く他の会社に再就職して、またバリバリと働く事を誓った。
…そこかは2ヶ月が過ぎた。
俺は全く採用されず、正社員はおろかアルバイトにも落ち、最低な気持ちで近所のこの公園で佇んでいたのが、8年前の俺だった。
……あれからさらにいろんな事があった。
嬉しい事も、悲しい事も、楽しい事も、頭に出来た来ることもあった。
俺は準職員にはならず、“フリー”として生きている。
相変わらず貧乏だ。
絶望感は無いが、たまに怒ったりしている。
何でこんな事をここ(公園)で思い出しているのか、と言えば、先日“知り合い”とLINEしていた時の事だ。
“ソーシャルディスタンス”の話題になり、俺が『俺は今も口が不自由だから、ディスタンスも距離も関係ないかな?』とその“知り合いに”メッセージを送った。
すると、そこから返事が無くなった。
(寝た? 忙しくなった?)
そう思って、それさら俺はメッセージを送っていない。当然、向こうからも何の返信も来ない。
不思議だったが、俺も気にもしなかった。
だが、数日がたった今思う。
ひょっとして、この“知り合い”は思ったのかもしれない。
(…コイツ、まだ病気の事、気にしてんのか?)
そう呆れたのかもしれない。
この知り合いは俺の状況、病気の事を知っている。
あれ(2度目の手術)から8年が過ぎた。
再発はしていない。
言葉は不自由だが、全く話せない事もない。車や原付も運転するし、働いてもいる。たまには酒も飲んだりと通常の生活を送っている。
なのに、俺の心の中にはまだ某年金機構から受けた“恨み”などが渦巻いていて、病気で言葉が不自由になった事を気にしている。
それを見透かして、呆れたのではないか?
そんな風に思えてきた。だから、俺に返信する気にもならなくなったのではないか?
俺の書く記事、小説、このブログでも俺は度々と病気(脳腫瘍)の事や、後遺症(言葉が不自由)の事を書いている。
自分に起きている(起きた)事を“ネタ”にしている。
何故なら、それが俺だからだ。
病気になった事、会社(求人誌)をクビになった事、声が不自由な事…全てが、今の俺だ。
それを書いて、誰に文句を言われる筋合いも無い。
だが、俺はいつまで“そこ”にいるのだろう?
この前、『ワールドプロレスリン』を観ていたら、デビューして初めてベルト(neve)を獲った新日のYOSHI-HASHIが言っていた。
確かに物事が切り替わるのは、一瞬だ。
病気も、解雇も、手術も、回復も、全て一瞬で起こった。
今のこの瞬間にあるものが、もう次の瞬間には消え失せてしまう…。
安心感も、希望も、恋しさも、変わってしまう。
寂しさも、怒りも、絶望も、変わってしまう。
だから、みんな“良い方”に変わりたいと思う。
一瞬で、自分の描いた希望に、現実を変えたい。
俺もそうだ、
もっと稼ぎたい。幸せになりたい。誰かに慕われたい。世話になった人を安心させたい。
そんな風に“変えたい”
だが、それは真に“変えたい”、もしくは“変わる”と思っている人間に訪れるのではないか?
ある格闘家が言った。
「過去を否定してはいけないの思う」
人は時間を積み重ねて生きている。
それを過去という。
だから、過去は消せない。
思い出して、懐かしんだり、それを糧に生きるのは良い。
だが、それに“囚われて”はいけないのではないか。
「気にしていないよー」などと言いながら、今も“過去”を思い出すと怒りが沸き上がる俺は、やはり過去に“囚われて”いるのかもしれない。
“変わりたい”と願うのなら、過去にこだわっては変われない。
変わりゆく“一瞬”についていけないのではないか?
まだ病気の事を出してしまう俺に、“知り合い”は“怒りに囚われている俺”を見たのではないか?
“そこ”にいる限り、俺に新たな“一瞬”は来ない。
乗り越える努力も必要だが、過去への思いのままから変わる事も大事だ。
“変わりたい”のならば。
「アンタ、まだ“そこ”にいるのか?」
「いい加減、それ言うの止めたら」
それを、あの“知り合い”は言いたかったのでは?
俺はこれからも病気(脳腫瘍)の事や、会社(機構)や“パワハラ上司”の事をガンガン書いていこうと思う。
だが、そこにはもういない。
それは過去だ。
過去は否定しない。あったのだから、否定しようがない。その時に感じた怒りや焦燥感は本物だ。
だが、それに囚われてしまうのはよそう。
バカにして、思い出して、ネタにして、笑い飛ばしてやれ。(その時の俺も…)
その“知り合い”が教えてくれたのかも、『そろそろ“次”へ行けば?』と…。『辿り着いたら?』と…。
一瞬はいつも俺のそばにある。
一瞬で変わる。
悪く変わる事もあれば、良くなることも。
一瞬なのだ。
一瞬で変わる。