東京五輪組織委員会 森会長の“女性蔑視”発言が大炎上🔥している。
連日、「辞めろ!」の大合唱だ。
五輪ボランティアにも辞退者が続出し、まだまだ長引きそうだ。
こうした事態にあるだけで、森会長にはある程度の責任があると思うのだが…。
ボランティアは“変え難い存在”だからだ。彼らがいなければ、大会が運営できない恐れがある。
そこを分かっているのか?
女性蔑視発言も馬鹿馬鹿しいが、特に俺が気になったのは、この発言。
まるで『俺を切れるものなら、切ってみろや💢』と言っているような物言い。
俺としては、この人(森会長)でないとまとまらない事もあると思い、東京五輪開催には必要な人物に思えていた。
だが、その上でこんな発言をするのならば、頭に来るのだ。何様のつもりだ?
頭に来た。
それは、俺も過去に「俺を切れるもんなら切ってみろ!」と他人に迫った事があるからだ。
数年前、俺は“ある仕事現場”で揉め事を起こした。
とある、“腰抜け”ジジイがやたらと俺に色んな事を押し付けて、“上”から物を言ってくるので、頭に来て、“クーデター”を起こしてやったのだ。
その腰抜けジジイは、案の定、派遣会社に泣き付き、俺を排除しようとした。
で、俺は「別に俺を切りたければ、どうぞ?」もいう態度で派遣会社の担当者と揉めた。その派遣にクレームのメールまで入れてやったりした。
すると、腰抜けジジイは、恐るべき事に「ワシ、辞めるから…」と言い出した。
もちろん嘘である。この腰抜けにそんな度胸は無い。
だが、派遣担当者は、俺とその腰抜け爺さんのどちらかを取るか、と選ぶような状況になり、最終的に爺さんを選んだ。
俺は、解雇となったのだ。
(…この顛末は『糾合』に描いている)
つまり、腰抜け爺さんの方を『余人を持って変え難い』と判断したのだろう。
俺自身、特に優秀だったわけでもなく、また周りの人とよくぶつかっていたので、『コイツ(俺)よりも…』と思ったのだろう。
(…詳細は『浜松“合”シリーズ 糾合』で)
なので、森会長のその発言にカチン💢と来ている。
自分を何だと思っているのか?
誰も『辞めろや!』と言えない事を良いことに、己の権力を振るう“腰抜けジジイ”だ。
だが、俺自身も『切りたければ、切ってみろ!』と迫った経験があるから、この馬鹿野郎どもの気持ちは分かる。
それは、『俺は他人にから“特別だ”と思われたい』である。
他に代わり得る人のいない、“変える事の出来ない人”になりたい、なっていたい、なっている(はず)なのだ。
派遣社員として、『お前の代わりなんて山ほどいるからよ』という環境にいる俺からしたら、そう周りから思われたい(思われているはず)という欲望は常にある。
だが、必ずそうであるはずがない。
俺がジジイに“負けて”クビになったように、『余人をもって…』という存在は本当に少ない。
そう思うと、あんな事を言って、まだ党内から擁護する声の上がる森会長は、本当に“変え難い”存在なのかもしれない。(それでも責任は大きいと思うが…)
この“変え難い存在”をプロレスに例えたら、団体内の“エース”の事になるだろう。
プロレスにとって“余人をもって変え難い”存在とは“エース”である。
試合のメインを飾り、それを目当てにお客が集まり、チケットを買ってくれる。“絶対的必要”な存在。それが無ければ“興行”が成り立たない。
WARの天龍源一郎。
FMWの大仁田厚。
リングスの前田日明。
…誰もその組織(プロレス団体)には不可欠な存在である。
彼らがいないと、団体の存続さえ危うくなる。
今の新日本ならば、棚橋、オカダ、内藤か?
ちなみに、“チャンピオン”ではない。
王者(チャンピオン)がいなくとも、プロレスに“エース”さえいたら、成り立つ。
チャンピオンは“選手権”試合をすれば、簡単に産み出されるが、“エース”は“ベルト”では生まれない。
何故なら、プロレスはショーだからだ。
何度も書くが、プロレスはショーである。肉体的な力量や格闘技の技量を競うものではない。
その結末はあらかじめ決まっているか、マッチメイカーにより指示があり、レスラーは2人(時には4人)で、技やムーヴ(動き)で観客を興奮させるのが、目的だ。
たから、プロレスのチャンピオンはいわば、“舞台装置”のようなものであり、その争奪を見せる事でこちらが興奮(ヒート)すれば、良いだけであり、価値はあるが、大事なのは『誰がチャンピオンか?』ではなく『チャンピオンと戦うのが誰か、なんで戦うのか?』が問題なのだ。
一方、エースは簡単には作れない。
日々の試合の中で、観客を興奮させる方法を掴み、それを恒久的に行える者が“エース”だ。
エースを作り上げるのは時間が要り、難しい。
だから、エースは貴重であり、“余人をもって変え難い”のである。
森会長はこのエースに近い存在なのではないか?
女性蔑視やパワハラをする“クソジジイ”だが、居ないと組織が成り立たない存在。(政治力?)
だから、留意を促す声が上がる。
で、あの『俺を切りたければ切ってみろや』になり、『俺がいなくて大丈夫と思ってんのか?』になるのである。
聞いたかところによると、森会長は非常に男気があり、他の議員からも頼られる“親分肌”の人物らしい。
そうした気質が「女性が多い会議は長い」というコメントになる。
誰からも忖度され、優遇され、遠慮させる存在になり、自分が特別だと勘違いする。
エースは代わりの居ない絶対的な存在だ。
その存在がなければ、何も始まらないからだ。(森会長がそこまでとは思えないが…)
だからこそ、頭を低くし、誰よりも謙虚でなくてはならない。
「“エース”を作ってはいけない」とか「“エース”になるな」とは言っていない。
ここで重要なのは、“エースは絶対に必要だ”という事だ。
エースだから、人間性や社会的規範が無くてもよいわけではない。
『彼がいないと物事が進まない』という現実と、「エースは品行方正で常に理性的である」という希望は繋がらない。両立し得ないだろう。
エースがいなければ、組織が動かないのなら、組織はエースに“動きやすく”作られる。
それは傍目から見たら、わがまま、尊大、横暴にしか見えない。パワハラもまた『組織の為』という都合の良い言葉に流されてしまう。
会議で意見を言えなくても、“エース”の気分が上々ならば、それで良しだ。
頭に来るし、卑劣だ。自身の事しか考えられない腰抜けだ。
だが、悲しいかな、“エース”は必要なのだ。
絶対に必要だ。
アントニオ猪木⇒藤波、長州⇒三銃士⇒棚橋、中邑⇒オカダ、内藤⇒?のように、エースのいる時期の新日本が安定していたように、興行の“核”として必ず必要だ。
五輪組織委員会にも必要だ。
五輪開催を進める為に、力ある者が必要になる。
森会長が辞めたら、また新たな“森会長(的な存在)”を置くはずだ。
それが組織であり、社会である。
そうして、運動(運営)されていく。
エースは必要。
それは“消耗品”のように現れては、劣化し、また現れていく。
そうして“循環”していけば良いのではないか?