鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

事故で右足ひざ下切断のこみみさん「何も提供してくれない第三者が『不謹慎』と言ってくる筋合いはないと思う」 障害を売りに働くことの是非(ABEMA TIMES) - Yahoo!ニュース


事故で右足ひざ下切断のこみみさん「何も提供してくれない第三者が『不謹慎』と言ってくる筋合いはないと思う」 障害を売りに働くことの是非(ABEMA TIMES) - Yahoo!ニュース

 

 

この記事には考えさせられた。

 

俺は脳腫瘍で、言葉が不自由だ。

それを指摘されるとかなり不機嫌になる。

だが、何かあるとつい『俺、病気で…』と“言い訳”に使ってしまう。

言った後、いつも罪悪感がある。

 

だが、『何も提供してくれない他人』というの物凄く同感する。

「かわいそうに」

「頑張れ」

「大丈夫」

他人は軽々と口にする。

だが、実質的に何もしてはくれない。憐れみと同情を浴びせるのみだ。

それで“良し”とする。

それは俺には『病気で口が不自由になって、かわいそうだな。…でもこっちに関わって来ないでね』に聞こえる。 

 

そんな“他人”ならば、こちらは“この状況”を“使って”みたくなるのだ。

それは物凄く罪悪感がある。

だが、同時に理解も出来てしまう。

 

“障害を売り”に使うのは、悪だろうか?

悪ではないが、善でもない気がする。

だが、社会は、世間は、同情して、やさしくするが、何かをしてくれない。ならば…、である。

 

初めて会った人に「君、話し方おかしいね?」なだと言われ、大喧嘩した事もある。

それからしたら、何かあると「お、俺、あ頭のの、び病気しまして、て…」という事にやはり疑問を拭えないのだ。