大河の“上から”の織田信長も雰囲気が会って良かったが、(女城主 直虎)
若い信長も良いなぁ。
桶狭間の時(永禄三年=1650)、織田信長はやっと尾張統一を達成した直後。
父、信秀の時は他の尾張国衆、織田親族衆からの協力で一万以上の兵力を動員出来たが、この頃は最大で5000がやっとだろう。
義元の目的は上洛ではなく、衰退していた尾張今川氏、西尾の同族である吉良氏との連携の為ではないか?
とりあえず、彼らと“繋がり”、行く末は上洛するのが第1の目的。
そうして、今まで三河の主導権を巡って争ってきた織田に壊滅的な打撃を加えるのが、第2の目的。
なので、一気に信長の首を獲りに行かなかったのは、尾張の信長の“領域”の目前で兵を展開して、そこを制圧すべく、探っていたのでは?
そして猜疑心の深い義元は、周囲の国衆や土豪の動きを確認していた。
また、今川兵が禁止されていた“乱取り”(略奪行為)を行っていたからでもある。
また、桶狭間が名前の通り、桶を返したように少し小高い山陵に囲まれていて、周りを警戒できていると、錯覚していた。
今川義元の桶狭間“停止”は大きな謎だったが、こうした複数の理由では無かっただろうか?
桶狭間に来た時点で、今川兵の総数22000兵(予想)。
兵の内訳は…、
沓掛=6000(残存・後詰用)
大高=3000
丸根=2000
鷲津=2000
義元本隊=9000(桶狭間へ)
…である。
信長が鳴海から善照寺砦に持ってきた兵は、せいぜい3000。
奇襲を狙う信長としたら、今川本隊の兵を自軍の2倍くらいまでにしたい。(9000→6000)
そこで中嶋砦の家臣らに出陣させた。
中嶋砦の出陣は、家臣らの“暴発”となっているが、そこも信長の計算だったのでは?
中嶋砦から出陣させ、今川本隊から約3000兵を引き出させた。
これで、織田3000兵vs今川6000兵となった。
猜疑心の強い義元は周囲に兵を展開させ、警戒と牽制をしていたが、この様子を善照寺砦から信長は眺めて、把握していた。
で、義元本隊の兵力が減ったこのタイミングで、信長は急襲を決意したのでは?