鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

PK度胸論

俺の小説やブログに稗村という男が時々登場する。


以前いた会社の同僚なのだが、非常に性格が悪く、何かと俺を小馬鹿にしてくる頭に来る💢人物だった。


そんなバカと酒の席で揉めた事がある。


ある日の飲み会で、俺は止せば良いのに、サッカー日本代表“元”監督のイビチャ・オシムのPKに関する話をした。

オシム氏は、徹底したリアリストであり、ロジカルな思考をしていた。

なので、サッカーの試合における勝敗決着方法である“PK”が大嫌いだという。

試合で勝敗が着かず、PK合戦になると、それを見ずにロッカールームに引っ込んでしまう、らしい。

何故なら、オシム氏にとってPKはあまりにも運により左右される決着方法だからだ。

そこに理論も方法論も無い。


「…だから、オシム氏はPKを見ないらしいよ🎵」と、雑誌かテレビで見聞きした話を得意気に話してしまった。(バカだな…)

さらに「PKに攻略法はないもんなー」とサッカー経験者でも無いのに、偉そうに言ってしまった。(…本当にバカ)


それに対し、普段から俺を小馬鹿にして舐めきっていた稗村は、反論した。

「PKに攻略法はあるよ。教えてやろうか? …それは“度胸”だよ。勇気さ(笑)」


稗村が言うには、PKのキッカー🦵は必ずゴールの左右にボールを放とうとする。

もしこの時、“ど真ん中”に蹴れば…。

どんなに俊敏なキーパーでも、シュートと同時に左右に跳んでしまえば、真ん中に蹴られたボールを防ぐ事は、不可能だ。


このど真ん中へのシュートは、そうしたキーパーの“虚”を突くシュートだが、一つだけ懸念がある。

それは、キーパーは往々にして、ゴールの真ん中に立っている。

もしも、ど真ん中に蹴る事を読まれていたら? キーパーは一歩も動かすにボール⚽を捕球してしまう。


稗村が『度胸だよ』と言ったのはこれだ。

つまり、「ひょっとして?」という恐怖に打ち勝ち、左右に跳ぶキーパーに惑わされず、ど真ん中に蹴り込む度胸が、「“PK”の必勝法だ!」と言った。


俺は、イラっと💢した。


普段の稗村は、度胸など皆無な人間だった。

周囲に俺しかいなければ、俺にすり寄って来るが、他に誰かいたら、他人にすり寄って俺を馬鹿にしてくるような、どうしようも無い“腰抜け”だ(と俺は思っている)。


それが、度胸を語るとは…

「お前が言うな…」と思った。


俺はこのブログに限らず、至るところで“度胸”、“覚悟”、“勇気”の重要性を挙げている


他人と上手く関われないから、俺に頼む腰抜け。

直接言えないから、“上”にチクる腰抜け。

自分の思い通りにならないから、“正当性”を掲げて得意気になる腰抜け。


…世の中、そんな“意気地無し”が多い。(俺も?)


だから、他人に嫌われたり、攻撃されたり、批判されたりする覚悟や度胸、勇気が必要だと俺は思う。

自分の意思を示したいのなら、他人にどう思われようと、状況、立場がどうであろうと、する“勇気”がなければならない。


られるかもしれない。

逆に怒られるかもしれない。

自分の立場が悪くなるかとしれない。


だからといって、他人に任せたり、忖度されて動いてくれるのを期待したり、立場を利用して圧力をかけるのは、腰抜けだ。

恥ずべき人間だと思う。


人間は“ある程度の立場”になると、誰もがそうなるようだか…。


しかし、だ。


それが稗村のいうような“攻略法”や“理論”では無いと思えた。

それは個人の“心”の問題だ。

戦略ではない。


それは精神論かもしれない。


自分を信じろ。

努力は裏切らない。

気持ちを強く…。


これらは心の持ちようだろ。戦略ではない。

これを戦略としたら、誰もが“同じ精神”を持たなければ、組織や会社は動かない事になる。


人間の気持ちは様々だ。


決して諦めない人間もいれば、すぐに諦めてしまう人間もいる。

自分を信じ続ける人間もいれば、自分を信じない人間もいる。

PKをど真ん中に蹴るキッカー(本田圭佑?)もいれば、左右に転がすキッカーもいる。


どちらが正しく、間違っているわけでも無い。


繰り返し書くが、度胸の無い人間は恥ずかしい。

『そんな勇気も無いのかよ』と俺が思えた人間など、過去にたくさんいた。


だが、度胸が無い、腰抜けもまた自分と同じ人間だ。

矮小で、哀しく、決まった人間にしか威張れない人間もまた、俺と同じだ。

もっと言えば、俺が必ずしも“度胸のある人間か?”と聞かれたら、「No」だ。


稗村の“PK度胸論”イライラ💢したが、それは周り回って、俺への苛立ちなのかもしれなかった、と今になって思う。