鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

ある高級球児の話(上)


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これは、とある高校球児の“その後”の話だ。


昭和と平成を跨いで到来した“バブル景気”はいろんな人間の人生を変えてしまったらしい。

 

『バブル景気が何故起きたか?』


1985年に結ばれたプラザ合意による日本円抑制が円高を呼び、ダブついた円相場なら、金融緩和の長期化を予想した金融機関の金利が大きく低下し、それが円増大の錯覚を起こし、ダブついた金が土地に投資され、さらに株式へとなだれ込んだ。株式投資で企業保有が膨らみ、それを“儲け”と錯覚し、給料などの増額、さらなる投資に流れ、まさに『金💰が金💴を生む』という未曾有の好景気を生んだ、らしい。


ちなみに、この理由の他には、

貿易摩擦解消のため国内需要の拡大』

『公共事業の拡大および減税策の恩恵』


…などの理由がある。


複合的な理由なのだろう。


だが、当初から“バブル”(泡)の評されていたのだから、この『金💴が金💴を…』という、虚業のような好景気がずっと続くとは誰も思っていなかったのだろう。


それが1988~1991年あたり。91年の後半から日本経済は冷えだし始める。


“経済氷河期”、“失われた20年”(ロスト・ジェネレーション)の始まりである。


だが、これは東京などの大都市の話。


地方は少し違う。

大都市近郊の土地が高騰すると、増大した金融機関や投資家は『土地はまだ“勝てる”』と地方の主要地域に触指を伸ばしていた。


もう東京などでは、お祭りのような金融高騰は収まりつつあるのだが、“ならば地方で”と思ったのだろう。

地方経済の中心地の土地価格が上がる。

地方の企業へ大都市からの資本が来る。

地方企業はにわかに活気付く。

インフラ整備などに資金が流入する。

個人資産、資金が増える💴💴💴

 

1992~1996年辺り。

“地方バブル”が起こっていたのだ。


実際、俺はこの“地方バブル”が終わった頃(97年)に大阪にいたが、よく「95年くらいはもっと活気があったんやで~」なんて話す関西人が多かった。


それは“とある地方都市”も一緒だ。

 

“彼”の実家は小さな工務店をしていた。

社長は父親。母親が経理。職人を3人ほど抱えて働いていた小さな工務店だった。


それが、彼が中学生になった頃から変わってくる。

工務店大きな仕事が次々と舞い込み出す。


何でも、近所に新たに住宅地が出来、そこに立つ新築関連の仕事が、彼の工務店に発注されてきたらしい。

父の工務店は活況を見せ出す。

昔ながら大工であった父親だが、未曾有の好景気にどっぷり浸かった。

仕事の受注は毎日。

大手住宅メーカーからの仕事が回ってきた。

職人が足りなくなり、増やした。

父の載る車が、中古の軽自動車から新車の大型ワンボックス車に変わった。

オンボロだった工務店は、彼が高校に入る頃には真新しい作業場付きの工務店に変わった。


当然、彼の小遣いも増額になる。

子供は手持ちの金が増えると、遊ぶ種類が変わる。

小学生の頃は、近所で缶けりなどをしていたが、この頃になると、遠くのゲーセンまで遊びに行き、散財すると母親に小遣いをせびった。

母親は渋々と、彼にまた小遣いを渡した。

工務店の経営はそれなりに順調であり、子供に渡すお金にも余裕があったのだ。


彼は、ラッキーな事に野球⚾が上手かった。

小遣いを使い果たしながら、近所の少年野球で活躍し、中学生の部活では市内で優勝した。


それに、“とある”高校が目を付けた。

その高校は野球では“古豪”という程の野球部があった。かつて、夏の地方予選で準優勝をしたことがあり、『あの夢をもう一度…』と、近隣の中学野球部への“リクルート”を盛んに行っていた。


ちなみに、その高校は公立である。

私立の強豪校ならな、『授業料免除』や『特待生』などといった“エサ”で有望選手を釣るのだが、公立高校ではそんなエサはない。

ただ『ウチで野球してみないか?』などと誘うだけだ。

だが、それだけではない。

当然、そう誘うのだから、誘われた中学生が受験したらその高校野球部に“入る事”になる。


中学の勉強に全く付いていけなかった彼は、その申し出に乗った。

実は別の私立高校からも“誘い”があったが、公立高校が自宅の近くであり、知り合いも多く入学するので、そこを選んだ。


高校時代。

それは彼の“青春”だった。

野球部の練習は厳しく、“勧誘”された彼だったが、ゴリゴリにシゴかれた。

部の担当コーチ(教諭)は、彼を誘った人物だったが、容赦なくブン殴ったりした。


だが、学校生活は彼の天下だった。


野球部は、その高校の“君主”だった。

朝練で泥水のようになる野球部員はよく“早弁”したり授業中に居眠りをしたが、先生らの叱責は幾分と軽かった。

(…あのシゴきに耐えているのだからな)

(野球部は今年こそは、頑張ってもらわないと)

という同情と期待があったからだ。

野球は優遇されていた。

 

そして、彼は一年生で唯一、レギュラーになった。それなりに野球の実力があったのだ。

彼は野球部の中でも、さらに優遇されていた。逆らう者もいない。


父親の工務店は、まだそれなりに景気が良かった💴💴ようだ。

彼への小遣いも変わらなかった。

といっても、彼は小遣いを使うヒマなどなかった。毎日、練習練習であり、休日がなかったからだ。

 

それでも学校は彼の天下であり、毎日が楽しかった😃


毎年夏の地方予選には、全校生徒、親、教員、OBが駆けつけ、お祭りのようだった。

その中心に彼はいた。

 

学校ではスター✨

そして、家庭は好調(?)であり、小遣い👛もそれなりにある。

将来の不安は無い。


彼の生活は文句がなかった。

毎日が楽しかった。

 

たまに野球部のメンツと街に繰り出し、遊ぶのも悪くなかった。校内を歩けば、誰ともなく声をかけられた。

同級生の彼女♥️も出来た。


高校三年の夏。彼の野球部は夏の地方予選大会でベスト16まで進んだ。

甲子園、とはいかなかったが、近年では1番の好成績であり、彼は満足していた。

三年生の秋、野球部を引退して、仲間や彼女の遊ぶことに没頭していた。とにかく楽しかったのだ。


三年の2学期、母親、教師と三人での進路相談した彼は、教師から「大学から推薦の話が来ているんだが?」と言われた。

隣県の大学への推薦であり、野球(スポーツ)推薦だった。


“地方バブル”は既に去っていて、父親の工務店の業績は下降気味だったが、両親は彼にその大学への野球推薦を推した。

彼に期待していたのだ。


彼は、隣県の大学へスポーツ(野球)推薦での入学を決めた。

高校では、“敵無し”の彼は意気揚々と大学へ進んだ。勉強がからっきしのかれた。彼からしたら、『どうだ、勉強なんぞできなくても大学ぐらい行けるんだぞ?』と自慢したい気持ちだった。


だが、これが彼の人生を狂わせる第一歩だった。