鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

とある高校生の話(下)

…続き。


ある日、彼は知り合いの建設業者から紹介されたコンサルタントから、ある話に誘われた。


それは、『人材派遣業をしないか?』という誘いだった。 


小泉政権下で緩和された労働派遣業は、日本の労働環境になくてはならないものになっていた。

色んな会社が派遣社員、バイトを雇って人件費を抑えていた。


実際、自前の職人(従業員)を雇えず、仕事のある時に雇う形をとっていた彼の工務店は、状態として、『“半”派遣』の形をとっていた。


自分の仕事に、労働者(職人)を派遣しているとと言えた。


それを『他の現場に回して、労働者からマージンを取る人材派遣業』をしないか、という誘いだった。

幸い、彼は父親の代からの営業回りや繋がりで、顔は広い。地元の建設系の会社と“渡り”が付けやすい。

コンサルタントはそこを推した。


「これまでの繋がりで、お仕事は貰えると思いますよ?」


コンサルタントはそう勧めた。


「だけどもさ、そんなに簡単に契約してくれるトコロ、あんの?」  


彼は懐疑的だった。

その40代半ばのコンサルタントは、彼にコツを教えた。

それは、人が嫌がる不人気な仕事を中心に営業を掛けろ、ということだった。 


建築関連の仕事は技術よりも体力的に非常にキツい現場が少なからずある。

そこは常に人手不足であり、契約を結び易い。

一度契約したら、後はやる気のある派遣(労働者)を採用し、送り続ける。

キツさに音を上げる人間もいるだろうが、人間は環境に慣れるものである。また、自然と淘汰されていく。

働ける者が残り、その現場は回る。

キツい現場だから、当然、バック(派遣契約料)は高い。


今までは、彼がメーカーなどから仕事を得ないと売上はゼロだが、この人材派遣ならば、契約を結べば、実入り(契約料)が入る。 

トータルで考えたら、工務店より安定した収入がある。


半信半疑だったが、彼は労働派遣業に乗り出した。 

実情を言えば、彼は、大手住宅メーカーの“下請け”に嫌気が差していた。

いつも“上から目線”の担当者にペコペコするのが気に入らない。


父もそうだったが、それが一番気に入らなかった。

大工である父が、若い担当者にひたすら低姿勢なのが、哀しかった😢

その父の“繋がり”からして、もっと好きに働けたのではないか。

そう思った。

そして、自分はそうなりたくなかった。


人材派遣に乗り出すと、その父親の頃からの“顔”で、契約をしてくれる会社は多かった。

彼は知り合いの職人や、“元”従業員らを誘った。

意外な事に皆、喜んで派遣された。

長引く不況で大工や職人は仕事にあぶれていたのだ。働ける現場があれば、彼らは喜んで紹介された。


一気に状況は変わった。


彼は父親の知り合いだった色んな会社、現場を回り、人材派遣の営業をした。

その一方で、派遣労働者を応募した。

応募には、地元の求人誌を使った。


彼は世の中にこんなに働き口を求める人間がいた事に初めて気が付いた。

彼の紹介する現場は、どれも建築系の体力的にも、精神的にもキツい現場だったが、それでも人材はそこそこ集まった。


にわかに彼の工務店は勢いを取り戻した。


何より、彼が嬉しかったのは、派遣の人間から慕われる事だった。

元からいた職人らはともかく、仕事にあぶれたフリーダーなどから「…お願いします!」などと言われて、彼はまんざらでも無い気持ちになった。


派遣現場は、建築系の他に、倉庫や資材管理などが増えた。会社の繋がりで今まで全く関わらなかった業態の会社とも人材派遣で知り合うようになった。

彼の工務店は、地元の“人材派遣業者”として少し有名になった。

「…キツい仕事ならば、あそこに頼めば」

「人手不足ならば、あそこ」

「とにかく急ぎならば、あの工務店。派遣もやっているから…」

という風に言われ出した。


時代も“追い風”が吹いた。

 

2009年、リーマン・ショックの大不況が日本を直撃した。

車などの製造業を中心に、全く売上が伸びず、平成不況から這い上がっていた日本経済はドン底に引き戻された。

彼のいる地域は自動車産業が強い地区だった。

当然彼の派遣業にも影響があった。

 

だが、それは微々たるものだった。

景気の衰退は確かに痛手だったが、住宅現場や建築関係が中心の彼の派遣業態には影響が少なかった。

…『少なかった』というより、元々、地方の建築業は冷えきっていて、それ以上落ちようがなかった、と言えた。

そこにリーマン・ショックの波が来た。

製造業から“切られた”者の多くが、彼の会社に登録した。

人が増えたら、働き口も増えた。


彼は、以前からいた派遣の中から口先の達者な者2人を営業として雇い、派遣先への開拓をさせた。自身は以前からの大手メーカーや建築関連の会社を回って、建築関連の仕事を回してもらった。 


割合にして、人材派遣が8、工務店が2、という内訳だった。


ありがたい事に日本全国が未曾有の不況に巻き込まれている中、彼の工務店は普通に売上を出していた。

仕事は少ないが無いことはない。そして、働きたい人間は山といた。

皆、仕事を求めていた。

 

彼はそんな派遣らに仕事を回した。

紹介するキツい仕事が多かったので、「もっと楽な現場ないの?」とか「あの現場、キツ過ぎっすよ」などと文句をたれるバカがいたが、そんな奴には仕事を紹介しなければ良かった。働きたい人間はたくさんいる。

代わりはいる。


彼の工務店の人材派遣業は、この地域の中でも順調だった。それなりに順調に業績を伸ばした。

 

このタイミングで、母親が社長を退き、彼に工務店を任す事になった。

人材派遣で稼ぎだし、人も雇いながら、営業に回る彼に安心したのだろう。

または、母親も疲れたのかもしれない。


2010年。遂に彼は社長になった。


で、一つの大きな決断をした。

彼は祖父の代から続けていた工務店を廃業し、“人材派遣業”一本で稼いでいく事を決めた。


…というか、以前から工務店の建築関連の仕事の受注が少なくなり、請負で受けるより、人材を派遣してマージン(手数料)を貰う方が楽だった。


その事を母親に告げると、すぐに承諾した。

「もうアンタの勝手にしな…」

母は、会社の事は彼に任せたようだった。


営業をさらに増やし、彼は彼らに仕事の獲得を任せ、自分はもっぱら派遣の“スカウト”に躍起になった。

気に入った派遣や、営業らと仕事終わりに街中に飲みに繰り出すのが楽しみになった。

皆、「社長、社長」と彼を慕った。

彼は悪い気持ちにはならない。

高校生の頃の、高揚感さえ得ていた。

(…これだよ、これ)と満足した☺️☺️☺️

気分はヤングエグゼクティブだった。

飲み屋やキャバクラで豪遊した。お金💴はそれなりにあったからだ。

景気が悪い地方で、自分だけが“勝者”に思えた。


2011年の冬は、彼の理想の将来の片鱗を見せながら暮れていった。

 

だが、楽しい時はいつも“一瞬”だ。

彼に、破綻が迫っていた。

 

…(終)に続く。