ひろゆきが語る「僕とそれ以外のインフルエンサー」の決定的な違い(ダイヤモンド・オンライン) - Yahoo!ニュース
先日、YouTubeのひろゆきさんの切り抜き動画を観て、驚嘆した。
この方の即答にかなり驚いていたのたが、それを他のユーザーから聞かれ、「動画を切り貼りしてま~す」と堂々と言っていた。
俺は、動画を再度見てみたが、多少編集編集で“切り抜”されていたが、ほぼ“ノータイム”で答えているようだった。
やはり凄い。
そして、“危険”な匂いがした。
“従いたくなる”匂いがした。盲目的に従いたくなる信頼感があるのだ。
これはヤバい💦
俺は、社会で1番危なげのは“共感”と思っている。
共感はすぐにしたくなる。
共感は便利だ。
『この人、凄い』で興味を持ち、『あれ? この人、俺と同じ考え方してる』などと共感する。
↓
その人が凄ければ凄いほど、共感性が高井と『なら、俺もこうなれる』と思い込む。
↓
その人が言動全てを“是”(賛成)とする。盲目的に賛成する。
何故なら、共感出来るから。
↓
言うことを何でも聞き入れる。
何故なら、共感出来るから。
↓
立派な“信者”
…となる。
何回か書いているが、信者は便利な存在だ。
“教祖”が何をしても、何を言っても、良い風に捉え、自身を持ち上げてくれる。
口答えもせず、信頼と信用、時には実利さえくれたりする。
ひろゆき“さん”には、その匂いがする。
以前見た切り抜き動画で、『200万円貯めた』という高校生がひろゆきさんに『これを400万にしたいのですが、どうすれば?』と質問していた。
俺は、ひろゆきさんの答えに注目した。
投資?
起業?
貯蓄?
その答えは驚くべきものだった。
「別の仕事をしましょう」だった。
「誰もが200万を400万にしたいが、なかなか出来ない」
「高校生で200万貯めらるならば、他の仕事でもっと稼げるはず」
「ならば、できるはずだ」
…と、こんな感じだった。
俺は、(なるほど…)と思ったが、よく考えてみれば、具体性がない。
つまり、「そう簡単に400万なんて稼げない。真面目に頑張りな」というのを優しく言い換えただけだ。
そして、ひろゆきさんの言うとおりだと思う。
(そもそも高校生で200万貯めるというのも、凄いが…)
この人は実に巧妙だ。印象の与え方が上手い。
ただ『頑張りな』ではなく、『そこからもっと稼げるぞ』と言い換えて、印象を良くしている。頭が良いと思う。巧妙、とも言える。
ひろゆきさんは、自身のYouTubeでのコメントや補足に対し、「何の根拠も無い」とか「報道番組では無い」と堂々と言っている。
その情報(YouTube)は虚偽ではないが、それは彼の主観で語っているに過ぎない。それを加味しなければならない。
だから、全て信じて「さすが、ひろゆき!」などと思うは少し違う。
(本当か?)と疑い(嘘では無いと思うが…)、自身で確かめられるだけ確かめたらいいのだ。
そして、それをはっきりと公言する彼はやはり、凄い。
“従いたくなる”
『もう何でも任せて良い』『あんな事も聞きたい』『この問題はひろゆきさんはどう思う?』
…などと、考えを聞いて、支持したくなる。
ひろゆきさんは動画で他人を『バカ』とか『無能』などと蔑む。
最初は(随分とはっきり言うなぁ)と思っていたが、これはそう他人を“切る事”で自身の“信者”を擁護してないか。
『こんなバカとは違う俺の“信者”は、…偉い!』と“思わせたい”のではないか。
他人に与える印象の旨さ、を考えると彼の“悪態”とまた印象の為ではないのか。
バカ・無能とコキ降ろす事で他人を貶め、分断したいのではないのか。
または、分かりやすく他人を説明するためか。
誰もが他人より“有利”で“優良”でいたい。『無能、バカ』でありたくない。
『ひろゆきがいうなら、◯◯はバカなのだろうな…』そうした価値観みたいなものを動画を観ている人に与えたいのではないか。“共感”を誘発させている。
そして、それに従いたくなる。信者だからだ。
即答の理由を堂々と話し、自身の“主観”に過ぎない事を自ら述べるひろゆきさんには、やはり好印象を受ける。思わず質問したり、伺いたい事が出てくる。 俺自身の周りの出来事や、考えを質問したくなる。
だが、ダメだ。
ギリギリまで自分で考えないといけない。
考える事を放棄してはダメだ。
共感し、他人に“頼む”のは楽だ。判断を任せてはダメ。鵜呑みはダメ。
考える事を放棄したらダメ。
正しそうで、楽しそうで、独特で、他の人から尊敬されている人にさえ、自身の考えを“任せて”はダメだ。
間違い無さそうでも、鵜呑みにしたらダメ。
考えないといけない。それを放棄するな。
かつて、アントニオ猪木は言った。
「バカになれ」
これは(何も考えるな。俺と“俺のプロレス”を観ておけば良い)という“洗脳”だ。
信者になれ、というわけだ。
アントニオ猪木が見せた『異種格闘技戦』はプロレスというショー👯を“プロレス”というスポーツにした。
その根本は“やはりショー👯”なのだが、“リアルファイト”(根底は“プロレス”)という“雰囲気”が多くの人間を惹き付けた。
まさに“印象”だ。
『プロレス=闘い=アントニオ猪木』という少々無理やりな印象を世間に認めさせてしまった。
まさに“教祖”だ。カリスマだ。
だからこそ、アントニオ猪木は“カリスマ”であり、天才✨☀️✨であり、オピニオンリーダー🔥であり、不出世のレスラーに他ならない。
信者がいるのも当たり前だ。
日本のプロレスは、彼により地位を得て、彼により繁栄を得たのは間違い無い。
(俺は、全日からプロレスを見たので、G馬場にも大きな功績を感じているが…)
“世の中(社会)に出る”とは、実力、運、タイミングの他に、それらをまとめている“印象”が重要なのかもしれない。
社会とは“印象”の与え方で変わる。
プロレスラーの肉体的、技術的な実力が、リングの上で反映しないように、社会に出たら、その人の“地”はあまり関係ない。
“仕事ができそう”
“優しそう”
“カッコ良さそう”
“正しいことを言っていそう”
“何となく良さそう”
それくらいの印象で、人は他人を判断する。そして、そんな人を従いたくなる。
崇めたくなる。
何でも信じたくなる。
ひろゆきさんもそうではないか。
“この人、何となく良いこと言いそう”くらいな感じで人気なのではないか。
(ま、その印象を掴むのが大変だと思うが)
ひろゆきさんから学ぶのは、“好印象”を得る事では無く、その知識や印象を“掴むテクニック”なのではないか。
アントニオ猪木が、人々を惹き付けたように、どうすれば、他人を“巻き込めるか”、“他人から良さそうな印象を得るか”を学ぶべきだ。
共感してはいけない。
誰もアントニオ猪木になれないように、ひろゆきさんにはなれない。
YouTubeも音感のように聞き流し、(へー、そうなんだ)と参考にした方が、自分で考えるようなるから良いと思うのだが。