鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

8/30 普通の看過

パラリンピックを観ていたら、


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水泳の鈴木選手の“泳ぎ以外”の姿が気になった。

 

彼は両足、片腕が無い。残る片腕も指が欠損している。

 

だが、普段の彼はそれを全く気にしていないように振る舞っているのが、驚いた。

まるで、手足の欠損を気にしていないのだ。

たたの“アスリート”に見えた。

 

おそらくだが、ここまで来るのに相当苦労したし、嫌な思いもしただろう。

それを“とっくに”乗り越えて普通にしている。

 

メダルも凄いが、その姿が印象に残った。

 

パラリンピックでメダルを獲るのも凄い(しかも複数)が、障害を受け入れているのが、また凄い。

普通なのだ。

 

そんなパラアスリートを撮影する“盲目”の写真家📷の話を聞いた。


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目が見えないのに写真家📷をしているのが凄い。しかもちゃんと撮れている。

 

は「看過される存在になりたい」🌟と言っていた。

 

自分を見ても、「あ、あの人、目が見えないけど、写真家📷何だな…」と思われるようになるのが理想らしい。

 

ここで俺は酷く反省した。

 

鈴木選手も、この写真家も自身を「凄い」と思ってしまった。

よく考えてみたら、それは“差別”ではないか?

『この人、障害があるのに普通にしていて凄い❗』は、自身が普通だから言える言葉だ。

障害のある人間が『“普通”じゃないのに、“普通”だ』という、健常者の奢りだ。

 

反省した😖⤵️

 

俺は“看過”しなくてはならないのだ。

『あー、こういう人ね』と思うくらいでないといけない。

 

努力ではない。

特別でもない。

凄くもない。

 

普通の事なんだ。普通は「凄くない」。