パラリンピックを観ていたら、
水泳の鈴木選手の“泳ぎ以外”の姿が気になった。
彼は両足、片腕が無い。残る片腕も指が欠損している。
だが、普段の彼はそれを全く気にしていないように振る舞っているのが、驚いた。
まるで、手足の欠損を気にしていないのだ。
たたの“アスリート”に見えた。
おそらくだが、ここまで来るのに相当苦労したし、嫌な思いもしただろう。
それを“とっくに”乗り越えて普通にしている。
メダルも凄いが、その姿が印象に残った。
パラリンピックでメダルを獲るのも凄い(しかも複数)が、障害を受け入れているのが、また凄い。
普通なのだ。
そんなパラアスリートを撮影する“盲目”の写真家📷の話を聞いた。
目が見えないのに写真家📷をしているのが凄い。しかもちゃんと撮れている。
彼は「看過される存在になりたい」🌟と言っていた。
自分を見ても、「あ、あの人、目が見えないけど、写真家📷何だな…」と思われるようになるのが理想らしい。
ここで俺は酷く反省した。
鈴木選手も、この写真家も自身を「凄い」と思ってしまった。
よく考えてみたら、それは“差別”ではないか?
『この人、障害があるのに普通にしていて凄い❗』は、自身が普通だから言える言葉だ。
障害のある人間が『“普通”じゃないのに、“普通”だ』という、健常者の奢りだ。
反省した😖⤵️
俺は“看過”しなくてはならないのだ。
『あー、こういう人ね』と思うくらいでないといけない。
努力ではない。
特別でもない。
凄くもない。
普通の事なんだ。普通は「凄くない」。