先月、浜松の街中に出た。
有楽街にあったパチンコ屋が潰れ、空き地になっていた。
で、先日行くと、
コインパーキングになっていた。(早!)
また浜松の街中が寂しくなったな。
俺はパチンコやパチスロをしないが、このパチンコ屋には思い出がある。
日雇い派遣の仲間に上ちゃん(仮名)という男がいた。
明るく、真面目な奴だったが、俺からすると少し残念な趣味があった。
上ちゃんは、パチスロ(パチンコ?)好きであり、よくこのパチンコ屋に入り浸っていた(モール街の『金太郎 花子』にも…)のを俺は知っている。
俺はパチンコやパチスロをほとんどやらない。
単純にギャンブルする金がもったいないのもあるが、どうも「ギャンブルは基本、儲からない」という気持ちが強いからだ。
で、とある現場で上ちゃんと軽い口論になった。
上ちゃんは『パチスロ🎰は儲かるよ♪』と言い張った。正確には『パチスロは儲かる時があるから、やっても良い』という、よく分からない理論を主張した。
気持ちは分かるが、そういう事を言って地獄を見たバカを何人か知っていた俺はどうも納得出来なかった。
何故なら、それは基本、“運”ではないか?
ギャンブルは、“運任せ”である。
勝ち負け、収支、資金を運任せにするのはどうか?
世の中には、必ず『運、不運』がある。
運良く仕事が上手くいく事があったりするから、仕事には運がある。それに左右されてしまう時もある。
俺も「あの時、病気(脳腫瘍)にならなければなぁ」と思ったりしたこともあった。
タイミング、出会い、ポイント、偶然…。
仕事や人生には『運が良かった』としか思えない時がある。
しかし、必要か?
必要としたら、どうそれを上げたら良いのか?
それが分からないなら、“運を良くする”具体的な方法は無い。
方法が無いのに、どうすれば良いのか?
それはつまり、ギャンブルに“勝つ方法”は存在しない。
事実、「ギャンブルで勝っている」と“宣う”奴はいても、本当に勝っている(常勝)人間を見たことがない。
上ちゃんがいくら「勝っている!」(たぶん嘘)と言っても、ギャンブルである以上“負ける”時はある。
ギャンブルには“テクニック”が必要なのかもしれない。経験則、慣れ、予測もできるかも。
だが、そのテクニックはやはり基本“運”ではないか?
運の良し悪しに、生活を賭けることが可能か?
俺はどうしても分からなかった。
上ちゃんが損をしているとしか思えなかった。
すると、上ちゃんは「俺がギャンブル好きだから良いだろ?」と主張し始めた。
俺「趣味なの?」
上「そうだよ、趣味。だから良いだろ?」
俺「趣味で、何万も無くして楽しいか?」
上「あー、楽しいね💢」
俺「ギャンブルって、負けたらなんも残らないだろ?」
上「あー、それがギャンブルだよ💢」
俺「楽しいの?💢」
そんな事を言い合った記憶がある。
趣味なら、それは人の勝手だ。
俺も下手な釣り🎣やレトロゲーム🎮️の記事を別ブログに上げているが、あれは趣味だ。
他人にガタガタ謂われたくない。
何の収入にもならないし、得はない。世間に己の不器用を披露しているに等しい。
だが、趣味だから良い。
趣味だから、負け(ボウズ、ゲームオーバー)も構わない。
だが、ギャンブルは負けたら損壊がある。
それはやはりならない方がよくないか?
運は必要か?
確かに必要だ。
だから、“運”に頼る事に“出来るだけ頼らない”方が利益があるだろ?