俺の人生には、『思い込み』の強い人間とよく出会う。
大学一年の春、入学当初、外国語教科の履修に際して悩んでいた同級生がいた。
普通、語学の履修は2つ程(俺は英語とアラビア語)だ。その男は5つも履修(英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、中国語…)した。
…余程、語学が得意な奴でもない限り、そんな多くの言語を習得できない。だが、その男は『せっかく大学入ったのだから、いろんな言葉を習得したい!』と""思い込んで"、意気込んでいた。
一年後、英語以外の言語科目を落としていた。
別の男は、『どの先輩に付いていくか?』を真剣に悩んでいた。どの先輩と親しく付き合うかで、大学四年間の全て決まるかのように"思い込んで"いたようだ。
「あの先輩、◯◯さんと仲良いからな~。その先輩はよく飲みに連れて行ってくるからな~」
そんな事を考えていた。
一年後、その男は誰からも相手にされなくなっていた。
大学四年の頃、まだ日本は『就職氷河期』だった。友人は「どうしても"外資系"に就職したい!」と言っていた。
マスコミは『日本企業はダメだ。だから、これからは海外に資本を持つ、外資系企業だ!』とよく報道され、友人は、それを"思い込んで"いたらしい。
俺の大学から、当時"花形"だった外資系企業に就職できるかは、かなり疑問だった。
でも友人は「何が何でも外資系!」と言っていた。
半年後、その男が希望通りの外資系に入れたかは、分からない…。
俺は大した就活もせず、販売業に就職した。
そのブラック企業の研修期間の最後。
子会社の社長なる人物が来て、偉そうに『どうしたら成功できるか』という"思い込み"を偉そう語った。
一年後、その子会社は潰れてしまった。
ブラック企業を辞めた俺は、再就職した地元の出版社で、営業社員などから"扱い易い馬鹿"と"思い込まれ"、コキ使われた。
数年後、俺は正社員になったが、すぐに解雇された。
次に"公的保険機構"に就職した俺は『これで俺の人生は大丈夫だ』と"思い込んだ"。
一年後、俺は脳腫瘍を発病し、死にかけて言葉を失った(少し不自由になっただけ)。
2度の腫瘍除去手術後、会社を契約解除になった俺は、それでも『すぐに就職出来る』と"思い込み"、数々の地元企業に応募するが、どこにも雇ってもらえなかった。
そして、今の俺がいる。
何故、人は『思い込む』のか?
俺はその多くが分からなかった。
そして、俺自身も"思い込み"をしていた。何故だろう。
それは、『思い込みたいから』ではないか?
◯◯なら大丈夫。
◯◯が助けくれる。
◯◯は◯◯だから、きっと上手く行く。
他人や、自分が選んだ方向性が決して間違い無く、これならば『自分に"損"は無い』と思い込みたいのだ。
一度思い込んだら、それに付いて他にあれこれと考える理由は無く、ひたすら"思い込んで"おけば良いのだ。
だから人は『思い込みたい』のだ。
そして、"選択"に迷う。
どれを『思い込むべきか?』に、慎重になる。
どれを選べば、誰に従えば、何を信じたら、自分が幸せなのか。
思い込みたいから、最初の選択に慎重になる。
…俺もそうだったかな?
だが、実はそれはそれほど重要ではない。
それを今まで生きて来た俺は分かってきた。
人生は『何を選択するか?』ではなく、『選んだ道をどう生きるか?』だからだ。
どの言語を履修か、ではなく、『選んだ外国語をしっかり勉強する』のが大事。
どの先輩についていくか、ではなく、『自分と肌の合う先輩と楽しく過ごす』のが大事だ。
外資系企業に入るのが重要、ではなく、『何の仕事に付いてもしっかり働けるか』が大事。
『こうしたら成功する』『コイツは扱い易い』ではなく、『どうしたらさらに成功するか?』『コイツは扱い易く思えるが、それで組織の利益に繋がるか?』と考えるべきだ。
例え"公的保険機構"に再就職したからとは言え、安易に喜ばず、どうすれば組織内でさらに重要視されるのか、探り、努力するのが大事だ。
『すぐに就職できる!』ではなく、『もし、なかなか就職できなかったらどうしよう』と先々と自身の在り方を冷静に分析すべきだ。
大事なのは選択では無く、選択した先を『いかに生きるか?』なのだ。
それを最近痛感している。
これが分からないと、自分が選んだ選択肢が"間違っていた"際に、人は激しく後悔と自責をする。
何を選んでも、何を信じても、何があろうとも、ひたすら真摯に努力するしかないのに…。
高校生の頃、俺はプロレスにハマり、特にUWFの"プロレス"に魅力され、
ブームの兆しが見えていた総合格闘技に興味を持って、熱い視線を送っていた。
俺の中で、
『UWF(インター)=総合格闘技』だった。
だが、それは"思い込み"だった。
UWFはバリバリの"プロレス"であり、いわゆる『真剣勝負っぽく見えるプロレス』だった。
それはUインターのビデオを観て、すぐに分かった。
自分の好きなものが、"思い込み"だったと分かったが、それを簡単には諦められなかった。
そこで"勝手に思い込んだ"のが、『彼ら(Uインター)は、格闘技を極める集団たが、仕方なく"ビジネス"として"プロレス"をしているんだ』という"都合良い"理由を考え付いた。
"信者"とは便利な存在だ。
自分の"思い込み"を思い込みたいから、おかしな点も思い込みで都合良く"解釈"して、また思い込もうとしてくれる。
『UWF(Uインター、リングス)はリアル(真剣勝負)である』と"思い込んで"いないと、俺は"信者"になれないのだ。
しかし、これが思い込んでいた方はどうなのだろう。
高田延彦は自伝『泣き虫』の中で、『ファンから「頑張って下さい」と言われ、複雑な気分になった』と語っている。
この高田が抱いた"違和感"が、MMA(総合格闘技)へ進出する遠因になったという。
これは本当か?
確かに"プロレス"なのに、"リアル(真剣勝負)と思い込んだファンからの声援を受けた"プロレスラー"は複雑だろう。
何故なら、プロレスの結末は決まっている。
勝敗は戦いが始まる前に決まっていて、レスラーらはあらかじめ決まっている勝敗に向け、二人(またはそれ以上)で"演技"し、観客を盛り上げるのだ。
思い込んだファンの「頑張って下さい」には、『真剣勝負に勝って下さい』というニュアンスが入っている。
それに対して、プロレスラーは違和感を抱くのは理解できる。
しかし、だ。
プロレスが"プロレス"であるのは、そうした方が盛り上がるからだ。観客が興奮するからだ。
"プロレス"を見せる側からしたら、リアル(真剣勝負)の勝敗より、プロレスの方が盛り上がる(はず)だ。
つまり、高田延彦は『頑張って!』に対して違和感を抱きつつ、『そう思い込んでくれて、ありがとー!』と思っていたのではなかったのか?
…ただ、この自伝が出たのは、2005年あたり。
当時は、MMA(PRIDE)の最盛期。
プロレスの興奮より、リアル(真剣勝負)の興奮を"肯定"しないと、盛り上がらないのだ。
思い込みは、『思い込みたいから』、思い込む。
そこには、思い込みたい人間がいて、思い込ませたい人間がいる。
この関係性においてのみ、"思い込み"は成立する。
UWFのプロレスを思い込ませたい高田らレスラーがいて、思い込みたい俺らファンがいる。
では、俺はUWF(インター)が"プロレス"だった(10・9)からといって、プロレスを嫌いになったか?
いや、なっていない。
それどころか、プロレスという"枠"が広がり、もっとプロレスを楽しめるようになった。
俺にとってプロレスとは、『どのプロレスを信じるのか?』ではなく、『どうプロレスを楽しむのか?』であったからだ。
UWFが"プロレス"である以上、そのプロレスを楽しむしかない。そして事実楽しかった。(96~00年)。
…それも『健介-川田』で崩れたが。
思い込みは禁物だ。
しかし、思い込みに肝心なのは、やはり『何を思い込むのか?』ではなく、『思い込んだ、その先をどうするか?』なのだ。
『UWFはプロレスでしかない』という"位置"で立ち止まっていたら、誰も興奮を得られない。
そこで『UWFはプロレスだから、プロレスとして楽しもう』とするなら、特に問題は無い。
俺は、この時期(2005年くらい)には大きくMMAに夢中になっていた。
だが、プロレスも見ていただいぶ格闘技に押されていたが、プロレスはプロレスだった。
物事は、思い込んだり、信じて"終わり"ではない。
信じた"先"がある。
そこをどうするのか?
どう動くのか? どう思うのか?
そこからどのようなも代わる。
公的保険機構に中途採用され、(これで大丈夫だ💓)と思い込んでいた俺を嘲笑いたい。
『泣き虫』の高田を見ろよ。
"思い込ませたい"人間がいるから、"思い込みたい"人間がいる。
公的保険機構に入れたから大丈夫では無く、そこから自身がいかに努力するかで変わるのだ。
こうして、病気になり、契約解除になっても俺はそこそこ楽しく人生を過ごしている。
『大丈夫』ではなく、そこから『変化し続ける』事を覚悟すべきだ。
語学の履修に迷っても、先輩選びに困っても、外資系企業に入っても、成功する方法を見つけても、そこで『終わり』にはならないし、安心ではない。
"変化"するのだ。
猪木に憧れ、新日に入った高田延彦が、PRIDEで総合格闘家になったように、
今ではRIZINの解説者だ。
だから、思い込んではいけない。
そこで"終わり"では無い。
そこから始まるのだ。