昨日(1/29)、たまたま『おひさま家族』(?)というドキュメンタリー番組を観た。
障害を持つ少年を持った家族の話。
知的障害があり、日光を浴びれない。
母親は、他の兄弟や子供のように“生活”して欲しいと願う。
だが、父親の感じは少し違い、おそらく“息子は1人では生活出来なくなる”と予想し、息子に出来るだけ“寄り添おう”とする。
(…と俺には思えた)
ある日、この一家が公園にいく。
兄、弟は普通にお日さまの下で遊ぶがが、その子は日光を浴びないようにフードをしていた。
すると、それを見ていた同じ公園にいた別の子供らがそれを囃し立てた。
怒る母親。
「仕方ないよ…」と冷静な父親。
その子に感情移入していた俺は完全に母親側。
すると、兄がその囃し立てていた子供に接触。
何かを話していたのが写し出されていた。
スタッフが兄に「何、言ったの?」と尋ねると、「さぁ、どうでしょう?」と惚けたいた。
ここからは俺の勝手な予想だが、
(囃し立ていた)子供らに「ごめんね。俺の弟、病気でさー、どうしても“あんな格好”でしか、外、出れないんだよ」と説明しても、子供らの態度は、
「あー、そうっすか?」
というような感じではなかったのだろうか?
他人事というか、響かない、疎外感がある態度ではなかったか?
昼間の公園に、頭からフードを被った人間が現れたら、どうしても“異物感”がある。
寛容、許容、容認…など思ってはいるが、驚いてしまうだろう。
囃し立てたりはしないが、遠慮はするような気がする。
俺にも苦い記憶がある。
二度の手術後、退院して、再就職活動している中、静岡県内のある企業の求人に派遣会社を通じて応募した。
その席で俺を面接した会社側の“課長”…。
俺の履歴書を見るなり、露骨に顔を曇らせた…。
(…何だよ、こんな“病気持ち”。働けるかよ?)
とでも言いたげな顔を見せた。(…無駄な時間、取らせやがって)という顔。
俺はこれにカチン💢と、来た。(俺の思い込みか?)
気持ちはわかる。30半ばの脳腫瘍から回復した男が“働きたい”と言っても、困惑するだけだ。
だが、その表情は無いだろ?
俺は面接も受けられないのか?
働く価値も無いのか?
だか、その課長の気持ちも分かる。
忙しい仕事の途中で呼ばれ、“病気持ち”のバカの面接。
しかも、それを“おおっぴら”には言えない。
形として、「残念ながら…」と遠慮した態度になる。
俺が逆の立場なら、その課長と同じ態度をしていたかもしれない。
それは、その公園の子らと変わらない。
批判できない。
非難するべきでもない。
差別も出来ない。
だから、“区別”する。『可哀想だな』と同情する。
(…あー、そうっすか?)と言うしかないのだ。
人は必ず“区別”する。
差別できないと、区別する。
『こちらには来ないで。俺たちとは違うから…』
『これは仕方ないから…』
などと、いう。
で最後は、『あー、そうっすか?』で終わるのだ。
『自分には関係無い…』
『知らない…』
『分からない…』
で、終わる。
それが人間だ。
そう思うと、その父親の感じも少し理解できる。
「この子は、もうすぐ1人では生活できなくなる」もいうのであるなら、父親として“寄り添う”しかない。
親としてかなり哀しいが、それしか出来ないからだ。