『義経愚将論』というものを聞いた事がある。
源平合戦で活躍した源九郎義経は“名将”ではなく、兵規や(当時の)常識が欠損した“愚将”でないか?…という論だ。
正確には“愚”というより、野蛮(粗野)というイメージか?
以前読んだマンガ『漂流者(ドリフターズ)』や小説『義経』でもそういうイメージ像で描かれていた。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でもそんな描かれ方に近いか?
源平最期の戦い、壇之浦で、
義経は敵方(平家)の舟の“漕ぎ手”を狙うように指示する策を取る。
当時(平安期)、“非戦闘員”である漕ぎ手を狙うのは、当時の武士の倫理に反する行為であり、そこから『勝つためには手段を選ばない性格』とされた。
さらにドラマ内では?
有名な一ノ谷の“逆落とし”は、平家への急襲を画策した義経が、馬を単独で落とし、その後、武士が後から坂を落ちるという奇策だった。
武士が戦場で騎馬から下りるなど考えられない話であり、そこに義経の“異常性”を表している。
義経は“愚将”なのか?(匹夫の勇?)
(この壇之浦で、平家と共に水没した草薙剣が不明に…)
だが、
平家打倒を成し遂げたのは、義経の功績である。
“判官びいき”という言葉がある。
平家打倒を遂げた“功労者”である義経が、兄頼朝から排斥された事を哀れんだ後の人々の感情である。
かなりの“悪役”として後々名を残す事になる。
大河の中では、その義経と景時が反発しているように見せかけ、
実は互いに認め合っている、という風に描かれているのが面白い。
史実では梶原景時は、この後に北条一族と権力者争いを起こし、誅殺される。一応、“誤殺”とされているが、これも『走狗、煮らる』というやつだ。
平家を倒した義経は「わたくしは戦場でしか、役に立たん…」と呟く。
己の運命を見定めていたような言葉だ。分かっているような暗示シーンだ。
鎌倉幕府成立後の幕内の“内輪揉め”を考えると、比企派vs北条派の争いがここから始まったとするなら、比企の娘を正室(郷御前)にしている義経(静御前は愛妾…)は、北条側からしたら“粗野な軍大将”、“非常識な”のイメージであって欲しかったはずだ。
歴史ほ勝者が作る、という。
なので、“乱暴、非情”という義経のイメージも怪しい。
さらに、梶原景時は比企派とされているが、俺は景時は比企派、北条派、に属さない単独勢力を狙っていたのではないか?、と思っている。
鎌倉幕府の13人による合議制は、この梶原景時の独裁を封じ込める策だと俺は思う。
だから、景時は“讒言者”として扱われている。
北条一族は鎌倉幕府の執権に就く。
なので、義経(比企派)、梶原を“貶め”、潰すのは当たり前では?
なので、義経のイメージ、逸話は少し怪しく思える。
今、義経で分かっているのは、“戦好き”というだけである。好戦的だった、という事だろう。