鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

10/13 家康はいつ小早川を裏切らせたか 関ケ原大論争が勃発(日経BizGate)

家康はいつ小早川を裏切らせたか 関ケ原大論争が勃発(日経BizGate) https://news.yahoo.co.jp/articles/399f6d19b352b7404fab130b4015473a7153fb10

 

俺の調べた情報だと、“関ヶ原の戦い”以前、小早川秀秋は、亡き秀吉の妻、寧々(北政所)に接近していたようだ。

家康も北政所に接近しており、そこで秀秋を知ったと思われる。

 

ちなみに、家康がいつ、「天下」を狙い始めたか、はかなり分からない。

太閤秀吉の存命中で“殺生関白”秀次処刑後。

もしくは、秀吉死後の家臣団の分裂(武断派vs文治派)を見てからか。

さらにはもっと前。朝鮮出兵時の石田三成の“嫌われた方”を見てからか。

 

…あるいは、この全部か。

 

さらに、秀秋の『朝鮮出陣時の失態』『配置換え』『関白就任の約定』は後世の創作である可能性が高い。(と思う)

 

家康にとって、小早川秀秋は“天下簒奪”の計略に使う“コマ”の一つだったのではないか。

家康は秀秋を“絡め取って”いたのではないか。

 

関ヶ原の戦いでの各大名の配置は偶然で、しかも東軍(家康)の“攻撃部隊”(大将は次男秀忠)は信濃上田で足止め(vs真田)されていた。大遅刻。

 

つまり、“守備部隊”(旗本)と“外様”(秀吉子飼いの大名ら)しか在らず、家康は開戦を伸ばしたかった。

だが、徳川家臣の井伊直政もその娘婿の松平忠吉が“抜け駆け”して合戦がスタート。

焦った家康は、西軍にいながら、実はこちらに“寝返り”を“含んでいた”秀秋に石田隊の「横から突け!」と催促した。

 

これが開戦直後で、なかなか動かない秀秋に対し、気の短い家康は「小僧に欺かれた! 口惜し!」と唸っていたと云う。

 

この“小僧”が小早川秀秋だとすると、家康は秀秋に“以前”から寝返りを催促していたニュアンスがある。

 

だが、秀秋は西軍(石田側)として、この直前に徳川家臣の鳥居元忠が籠る淀城を攻めて落としている。

寝返りを予定していた秀秋が、同じ東軍のいる淀城を攻めるか。

可能性はあるが、もしそうなら秀秋の“面の皮”は相当厚くないか?

 

家康は、秀秋を“勧誘”していたが、秀秋の態度は曖昧で、西軍として淀城を落とし、西軍として関ヶ原に参陣。

開戦を延ばしたかった家康だったが、まさかの開戦。

慌てて秀秋に“裏切り”を催促するが、なかなか動かない。

その苛立ちが「小僧に~」ではないか?

 

歴史ドラマなどでは、徳川隊が動かない小早川陣に鉄砲を放ったりしているが、これは創作。

そんな事をして秀秋を刺激したら、短慮の彼が徳川隊に突撃されかねない。

家康は小早川への調略(裏切り工作)を任せた黒田長政に「どうなってんだ💢」とぶちキレている。(長政も逆キレ…)

 

態度の曖昧だった秀秋だったが、最後は北政所との“繋がり”で、開戦早々(午前八時くらい)に、西軍の大谷吉継の隊に突撃し、これが契機になり、西軍から裏切り者が増大したのだ。

 

これらのことから、『小早川秀秋の裏切り』は「かなり前から」とも言えるし、「直前に決めた」とも言える、と俺は思う。