サッカー⚽W杯カタール大会のネット記事で、『にわかサポーターが増えた💢』『にわかが騒ぐな!』というような話を読んだ。
その気持ちは少し分かる。
普段はサッカーの“サ”の字も気にしないのに、日本代表が活躍したり、メディアで取り上げだすと、“乗って”くる連中(にわか)には苛立ちを覚える。
(…ま、俺もそうだが…)
だが、こうした“にわか”な連中こそ“重要だ”と考えていた人間がいる。
先日、亡くなったアントニオ猪木である。

猪木の『環状線理論』を知っているだろうか?
それはコアファン(ヘビーユーザー=熱心なプロレスファン)と、普段は興味がないのに話題になると飛び付く“にわかファン”(ライトユーザー=一見さん)へ考え方、取り組み方、見方や猪木の考えが現れていて、とても面白い。
昔、新日本がロシア(当時はソ連)のアマチュアレスラーたちをリングに上げ、“プロレスをさせよう”とした。サルマン・ハミシコフ(?)とかいたなぁ
この時、多くのフロント陣(社員とおそらく現場レスラー)が反対したという。
「社長、素人(ソ連のアマチュアレスラー)にプロレスは無理ですよー」というわけだ。
プロレスの“本質”を知る新日本内部、レスラーらは、猪木のこの提案を無謀に感じ、嫌悪感が走ったという。
そこで猪木が説いたのが、『環状線理論』だ。
…猪木がいうには、
「我々プロレスラーは、常々、東京の“大動脈”である環状線を“走って”いて、それを観て歓声を上げ、応援してくれているのが、“熱心なコアファン”である。
だが、こうしたファンは常に移り気でアテにならない。必ずしも新日本プロレスを応援するとは限らない。
プロレスは興行であり、常にいろんな人間を“引き付けなければ”成り立たない。コアファン以外を引き付けなくてはならない
“環状線”だけを走っていても、ダメだ。
その“外”にいる、普段はプロレスなどを観ない“にわか”や“ライトユーザー”を取り込まなければならない。
だから“新しい事をやる”、“とにかく変化を見せる”、“新しい試みを常にする”事でそうした“にわか”を引き付け、取り込むしかない」
「いつも環状線ばかりを走っていてもダメだ。そこから伸びる、甲州街道や他の幹線路を走り、ヘビーユーザー以外を引き付けるしかない。新しい事を行い、ライトユーザーを巻き込むんだ」
…“新しい事”
猪木が示唆したのは、常に変化して、新しい事に進む。現状に満足したらダメ、という考えであり、スポーツなどの興行には重要と思われていたコアファン(ヘビーユーザー)に対し、否定的な見方をしているのが、面白い。
代わりに、にわかファン(ライトユーザー)へのアピールを考えている。
アントニオ猪木というプロレスラーの人生を眺めると、常にこの発想がある、と思う。
そこには先輩であり、“永遠のライバル”であるジャイアント馬場(と全日本プロレス)という存在があったからに他ならない。
馬場が海外レスラーの招聘ルートを独占した為、猪木は無名レスラーのタイガー・J・シンやスタン・ハンセンを新日本のリングに上げ、スターにし、国際プロレスのストロング小林と“巌流島の対決”、さらに“異種格闘技戦”などを行い、世間の目👀を強引に引き付けた。
その猪木からして、従来の“熱心なプロレスファン”(つまりヘビーユーザー)はジャイアント馬場の全日本を観るに決まっていた。
ジャイアント馬場の見せるプロレスこそ、力道山から続く日本プロレスであり、馬場こそ正統後継者で、言わば『王道』である。
そこに対抗するには、猪木の新日本は“それ以外”の観客を引き付けるしかない。
ヘビーユーザー(プロレスファン)は放っておき、ライトユーザー(にわかファン)を捕まえる。
これこそが、猪木が馬場の『王道』に対抗する術であった。
猪木はそう言いたかったのだろう。
この『ソ連アマチュアレスラーの参戦』はそれなりに成果があったらしい。
常に変化と挑戦を求めた猪木には、従来のプロレスにいるファンは置いて、新しい“にわか”ファンへのアプローチを考え続けて、常に考えられないプロレスを提供した。
とすると、サッカー⚽W杯カタール大会の『にわかサポーターが増えた💢』という憤りは、その気持ちは分からないでもないが、怒るほどの話ではないのではないか。
そうした“にわか”=ライトユーザーこそ、そのジャンルが盛り上がる重要な役割であり、“にわか”が増えたら増えるだけ、興行は“興奮”(ヒート)する。興行は興奮(ヒート)する観客により、成り立っている。引き付けられ、興奮した観客が“居続ける”事が興行の成否に関わる。
“にわか”という環状線の“外”に向かい、物事を広げていかない限り、拡大しない。
もしファンやそれに関わる人間で、それが分かったのなら、“にわか”を否定するのは『己の首を締める』行為に近い。
これはサッカーに限った話ではない。
それこそプロレスや格闘技もそうだろう。
もしプロレスや格闘技のファン、もしくは競技者で、“とある興行”(RAIZIN?)が流行れば、にわかが増える。
そして「にわかが騒ぐな!💢」とか「にわかは観るな!」などと吠えたりしたら、どうなる?
それは“その興行”へのマイナスにしかならない。
その興行自体がやらなくなれば、困るのはファンであり、その興行に参加する競技者だ。
意味の無い行為だ。
また“環状線”の外を見ない、つまり“王道”しか存在しない、あり得ない、というのもどうだろうか。
それは生き方の話だ。
環状線=メインストリート=スタンダード
環状線以外=抜け道=マイナー
…とするなら、誰しもが“環状線”にいたい。みんなに慕われ、知られ、まさに“王道”な生き方だ。
しかし、誰もがそんな生き方が可能ではない。
何かの弾みで、“環状線の外”に外れるかもしれない。
また猪木のように、“外される”(日プロ追放事件)事もあり得る。
そこでどうするのか?
もう一度、“環状線”に戻る?
そうでは無く、あえて“環状線の外”(抜け道)で生きる事を考えたり、そこに“訴えかける”方法を取るのも、またありである。
猪木の言葉を借りるなら「“環状線”(ヘビーユーザー)は移り気で、頼りにならない」のであり、“環状線”の“外”で“生き残る”方法を模索するしかないのではないか。(問う魂?)
猪木の環状線理論を俺なりに考察すると、こうなる。
たぶん、猪木自身は自宅の近くに環状線が走っていただけで、思い付いたのだろうが…。