20歳の徳川家康、三河一向一揆で見せた「冷酷な処分」の怖さ 「三大危機」の1つをどう乗り切ったのか(東洋経済オンライン) https://news.yahoo.co.jp/articles/b9fbdc6495f5a100f0fcb38044d12943f216b69c
この時の家康の所業が、彼の性格を表している。
『彼は、1度歯向かったり者や裏切った者、自分の意にそぐわなかった者を絶対に許さない』と、ある有名な歴史小説家も著書で述べていた。
しかし、話はここでは終わらない。
家康の恐ろしさを、家臣たちは改めて知ることになる。 寺院は以前と同じにようにする――。そう言って、すべてを水に流すかに見えた家康だったが、和議に至ると態度を一変。
一揆を引き起こした本證寺、上宮寺、勝鬘寺の「三河三ヶ寺」と土呂本宗寺は、家康から改宗を迫られた。
もし、拒否すると寺内を破壊され、坊主たちは追放されたというから、まったく「以前と同じように」ではない。
これには寺院側も驚き、家康に書いてもらった起請文を持ち出して「以前と同じようにするとの約束ではないですか!」と抗議した。つまり、これまでのように守護不入の特権は保証すると約束したはずと寺院側は訴えたのだ。 だが、家康はこう言い放ち、堂塔の破壊にとりかかったという(『三河物語』)。 「以前は野原だったのだったから、もとのように野原にせよ」
…である。
この苛烈さこそ、徳川家康という人の“元値”だろう。
好好爺とした後年の印象はあくまでも“擬態”
そうするように、学んできたのだ。
そうした“二律背反”した行為を見せたり、指示することで、他人を“取り込む”術を学んだのではないだろうか。
『どうする家康』をもっと観よう。