鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

プロレス心理学135 猪木イズムの“本質”

https://news.yahoo.co.jp/articles/10b7ba01a85b860cf1ea3edbce53465583c54e26
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アントニオ猪木とは、何者だったのか?


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それは『プロレスとは何か?』という永遠に出ない問いの答えと似ている。

答えが、無いに等しい(と俺には思える)

 

『猪木の前に猪木無し』と誰かが言っていたが、それは正確ではない、と俺は思う。

 

アントニオ猪木が開いたプロレスという“道”の跡を多くのレスラーが踏倒し、進んでいると思う。

 

そして、その道は猪木自身が独自に切り開いたが、そのすぐ横には“本道”(本通り)があり、そこを“走られなかった”ので、猪木は“自身の道(新日本プロレスを切り開いた、と言える。

 

日本プロレスの父、力道山は、猪木の師匠と呼べるか?

それは、それぞれの世代ごとのファンの見方によるが、猪木のライバル・G馬場にとっては師匠(…と馬場は思っていなかっただろうなあ)なのかもしれないが、猪木は違う。

力道山⇒馬場というプロレスの環状線(本通り)から離脱したところに猪木のプロレスはあると思う。

 

かつては、本道にいた猪木が、そこを離脱したからこそ、猪木は、“猪木のプロレス(ストロングスタイル?)”を見出だして、それがプロレスと同意語になってしまった。

 

だから、猪木の存在はプロレス界ではなくてらなる無い存在になり、「猪木の前に~」と思えてしまうと、俺は思う。

“プロレス”と言わば、新日本(と全日本)であり”プロレスラー”と言えば、猪木(であり、ジャイアント馬場)だ。

 

そんな猪木の本質を、一つ言うなら“裏切り”である。

 

上の記事にもあるように、猪木は“裏切り”を好む。

仲間を、世間を、観客を“裏切る”

常に思っている、思われている事とは違う事を行う。

それをリングで行ってきた(舌出し事件)

そうして生きてきたから。それが猪木のプロレスだ。

常に“裏切り”という変化をリングで現していた。

 

そう、猪木さんは常に新しい刺激を求めている人でした。マンネリになると、その文化や現象は終わってしまうと考えていたんだと思います。 たとえば地方巡業に行くと、よくご飯を食べに連れて行ってくれたのですが、そこで、対戦カードについての感想をよく求められました。私は、いち社員です。決定権があったわけではないのですが、カードがマンネリ化しないように、と思っていたのでしょう、「おい、今日のこのカードだけど、お前なら誰と誰が対戦すればファンは喜ぶと思う?」と尋ねてくるのです。 猪木さんからの問いだから、私も真剣に答えました。その答えが反映されたかどうかはわかりませんが、どこまでも新しいことを考え続けているんだな、と襟を正す思いでした。 「この人には何を言ってもダメだな」と思わせる人がトップにいると、組織は変わりません。「猪木さんが新しいことを求めてるんだから、自分ももっといろんなことを考えよう」。下にいる人たちがみんなこう考える組織だったからこそ、新日本プロレスは成長し続けたのだと思います。

 

と、長年新日本のリングアナだった田中秀和氏は述べている。

 

『マンネリになると、その文化や現象は終わってしまうと考えていた…』

常に新しい感覚を与えようと試みていた。

 

上のケロちゃんの感想も、そうした猪木の気質が出たものではないか?

上の記事だけ読めば、「下の社員からの言葉にも敏感な上司」と思えるが、逆を言えば、『誰かの概念を裏切り続ける』事に固執していた、と言えないか。

 

社会や、人間関係の“裏切り”とは、何か?

 

常に述べることか変わり、言行が一致しない人間だ。

それがアントニオ猪木だ。

 

演出家のテリー伊藤さんも「…あんなにいい加減な人はいない」と言っていた。

それは猪木の態度や思想が、常にコロコロと変わるからではないか。

よく、理解し難い話をする。

言っている事が、コロコロと変わる。

 

 

そういう人はかなり迷惑だ。

しかし、プロレスならどうか?

 

物事には様々な見方がある。

『プロレスって八百長でしょ?』

『プロレスって弱い』

『プロレスは真剣(勝負)ではない』

『プロレスは“怖く”ない』

『プロレスは“プロレス”という世界だけで戦っている』

 

それを打破(変えようと)し、世間の目を強引にリングに向けさせたのが、アントニオ猪木の“異種格闘技戦”だ。


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だから、モハメド・アリ🥊とも戦った。

 

変化(異種格闘技戦)を見せる事で、猪木のプロレスは“本通り”を越えた、といえないか?

 

この頃の猪木の話で興味深い話がある。

 

付き人をしていた新人の蝶野正洋は、猪木から「会場外やホテル入り、移動の時のファンは追い払え」と命じられていた。

 

で、実際に宿泊していたホテルからでてきた猪木に気が付いたファンがサイン目当て🖋️に近寄ると、付き人蝶野はそれを追い払った。

 

すると、猪木は怒った。

「せっかく来てくれたファンだろ。サインくらいするぞ💢」

…まるで、付き人蝶野がファンを無理やり追い払い、寛容な猪木がそれを制したように見える。

馬場らしい“芝居”だ。

 

これに若手の蝶野はかなり戸惑ったらしい。

 

…そりゃそうだ。

事前に猪木から「ファンは、追い払え!」と言っておきながら、実際にその本人から「ファンは追うなよ」と窘められるのだ。

猪木は真逆の事を言ったのは、猪木自身なのである。

 

俺なら「ちょっと、猪木さん、話が違うでしょ?」と言ってしまうだろう。

 

この二律背反する言動こそ、猪木の“真骨頂”だと俺は思う。

猪木に限らず、権力者(人気のある者)はよくこうした手を使う。

他人に対し相反する言動をするのだ。

人は背反する指示に対し、困惑する。その対応から、他人の自らへの依存具合が分かる。

 

背反する自らへの“臣従”を優先するなら、こちらの本意を探ろうとしたり、忖度する。

背反に“嫌悪感”を抱く者は臣従や忖度を拒否する。

 

これこそが、他人を“取り込む手”である。

猪木は『いい加減』に見え、変化や裏切りを見せながら他人(ファン、部下、レスラー)を“取り込んで”いたのだと思う。

いい加減な性格や、“本通り”になれない現状を理解して、それを自身への“注目”や“称賛”、“掌握”、時に“批判”へと変化させていたのではないか。

 

猪木はかつて述べた。


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『人は歩みをやめたときに、挑戦を諦めたときに年老いていく』

 

これはかなり綺麗に語られているが、つまり…、

『他人を裏切り、傷付けることを遠慮したら、こちらが“終わる”』という事ではないか?

 

人は他人を裏切り続けるから、生きて行ける。

 

二律背反を“裏切り”ではなく、それを“変化”や“挑戦”ととらえたたなら、人は常に言動を不一致させ、裏切り続けない限り、“止まってしまう”のだ。

 

だから、猪木は挑戦するし、裏切り続けたのだ。