鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

プロレス心理140 馳浩という“先導役”

石川県知事・馳浩が「プロレス映像」をめぐり大ピンチ! 地元メディアへの「理不尽な文句」で見えてきた “焦り”(文春オンライン) https://news.yahoo.co.jp/articles/59d04b7e0afef06e71987937c6412d3f8c830d70

 

馳石川県知事が追い込まれている。

 

 

馳浩知事、石川テレビにプロレス映像提供拒否 同社の映画めぐり不満』(朝日新聞デジタル1月27日)

馳浩知事は定例会見で、自身が元日に出場したプロレスの興行をめぐり、馳氏の意向で石川テレビに試合映像を提供しなかったことを明らかにした。

その理由として、 《馳氏は、同社制作で、昨年10月公開のドキュメンタリー映画「裸のムラ」で、馳氏や県職員の映像が無断で使用されていたとして、「肖像権の取り扱いについて、倫理的に納得できていない」と語った。そのうえで、同社社長と議論の場を持ちたいとした

 

何故それで、地元テレビにプロレス映像を使えなくするのか?

 

それは…、

 

だからこそ言うことを聞かないメディアには厳しく当たってきたようにも思える。馳の焦りは元日のプロレス報道から可視化されていたのだ。

 

議会でピンチの馳センセイが、自分に反抗的な地元メディアへの“牽制”なのだ。

 

この馳知事の言動、かなり分かり憎くないか?

何故なら馳浩は間違いなくプロレスラーだ(だった?)

それを、『地元メディアが自らに反抗だから、プロレス映像は使わせない💢』は、余りにも“小さい”(失礼)。

 

さらに、石川県知事にも関わらず、今年の元旦にノアで“復帰”(1日のみ)して、批判され、「私は死ぬまでプロレスラー」と発言していた。

こうした発言をするのが、俺が改めて知った馳浩らしい。

 

GWに石川で地震があったので、馳知事の手腕が試されるのはここからか?

 

ここ数年、馳浩というプロレスラーの“人間的な欠陥”をネットなどでよく見る。

かなり問題のある性格をしているようだ。(本当なら…)


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俺の知っていた馳浩は、まさに千両役者🏵️🌸、常に“華”があり、爽やかで穏やか、政治家になれたのも納得できそうだった。

 

だが、俺が知った最近の“馳批評”は酷い😭💔

『性格に表裏がある』

『目立つ同僚や他人が嫌い』

『露骨に他人を差別する』

『購買にだけ、厳しい』

 

…などだ。

 

俺が馳を知った辺りから、馳は次第に新日のリングから“離れ”出したような気がする。

1995年に政治家になり、気がつくと、全日本プロレスに移籍していた。(1996年)

 

俺がプロレスを見始めた頃(1991年)から、フェードアウトしていった感じがある。

 

俺はそれを新日本プロレス“現場監督”に君臨していた師匠、長州力から“離れ”たかった、と見ていた。



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新日本の実権を握り、議員になった猪木からカード編成を任せられ、興行の責任を担う立場になった長州は、レフリー(マッチメイカー)を小飼のタイガー服部にして、若手の三人(橋本武藤蝶野)を三銃士として売り出し、そこにジュニア戦線、G1など複数のスターを産み出した。そんな長州としたら、自らが育てた“ジャパンプロレス”の馳、佐々木(健介)を己の“後継者”として、新日本のトップにしたかったのでは?

だが、馳はそれは拒んだのではないか?

 

そこで長州は、自らとは縁遠く、反抗的な者(橋本)もいた若手三人を三銃士と売り出し、それが当たったのだ。


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俺はそれを馳の“自立”と捉えた。

 

だが少し違った。

彼は1990年に後藤達俊のバックドロップを受け、一時心肺停止状態となっている事を鑑みると、馳は体調も含め、新日本プロレスでの自分に“限界”を感じていたのではないか。

 

で、内心(…ここでは“ない”な)と思ったのでは?

 

そして、政治家になり、さらに全日本に移籍した。

 

数年後、盟友の武藤が新日本を移籍して全日本に来ると、馳は猪木から「黒幕」と罵られた。

 

馳浩という人間を見ると、常に自分が“生きる場”を探しているようだ。

ジャパン、新日、政治家、全日、知事…。

と、馳は“場所”を求めて、ダメならそこを変わり、常に自分が“生きる”場所を求めている。


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馳は、新日vsUインターの盛り上がりをどう見ていたのか?

馳はこの対抗戦に全く絡んでいない。

 

馳のレスラーとしての居場所は、いつの間にか新日本からなくなっていた。

 

小さなグループのリーダーに成りたがる人間は、自分が優先される場所に居たがる。

そこの“先導役”になりたいのだ。

新日本プロレスでの馳は、若手のコーチ役として相当厳しかったらしい。

他人に厳しい人間は自分にも厳しいが、同時にそうした自らが“生きる場所”の選定に敏感だ。

リングで死にかけ、師匠長州が“仕切る”新日に、居場所を見出だせなかったのだろう。

 

だから、政治家になり、全日本へ移籍したのだ。

 

“先導役”=マニュピレーターは必ずいる。

集団や他人を“思い通り”にしたいと思い、それを肯定する人間だ。

 

マニュピレーターは、自分が先導できない居場所を非常に嫌う。自分の思い通りにならない場所にはいられない。

何故なら、自分が一番“正しく”、“理想通り”だからだ。

それ以外は認めないし、そうならないと“居られない”のである。

社会にもそんな人、いるよね?

 

多分だか、馳の師匠である長州自身がそうしたタイプであったと思う。

いや、人間は皆、そんな気質を持っている。

これを書いている俺もそうだ。

 

だから、プロレスラーとして自身に限界を見た馳は、自身の居場所が新日本ではない、と悟ったのではないか?

馳はアマレス出身ながら、長州の好む“スパート系”なパワーファイターではなかった。

あえてそうなったのか、従わなかったのかは分からないが、彼には元々“長州政権”には臣従したがらない気持ちがあり、それが90年の事故を契機として、新日本を“諦める”ポイントになったのではないか。

 

馳は先導するのを、全日本や国会に求めた。特に政治家に力を入れていたようだ。大臣になれたし、今は知事だ。

そして、知事でも上の記事のような事をしている。

 

やはり人間の“元値”は変わらない。

新日本でコーチをしていた馳と同じ。永田に怒鳴った時や『ギブアップまで~』でタレントに怒鳴った彼は、今もそのままだ。

言葉通り、『一生、“プロレスラー”だ』である。

 

また先導を続けたいのだろうな。