ノンフィクション・ノベルの『冷血』を書いたトルーマン・カポーティの苦悩を描いたら『カポーティ』という映画がある。
『冷血』は語り手視点で事件を追い、自らも話の中に“出演する”という新しい手法(当時)のドキュメント小説だった。(ニュージャーナリズムだったかな?)
日本でいうと『復讐するは我にあり』が同ジャンルの小説かな?
『カポーティ』では、作者カポーティの冷血制作日誌おける、その苦労や描き方への試行錯誤、編集(?)とのやり取りがリアルに描かれている。
“ラスト”を悩みまくるシーンは『それはノンフィクションか?』とさえ思う。
現実は現実として必ず存在する。
だが、それは必ずしも要求されるものではない。
俺も“合シリーズ”という、ある意味ノンフィクションを書いてはいる。
人間関係は複雑で脆く、危うく、解きがたい。
そして人間は単純で、複雑だ。
人の気持ちや行動は“思い通り”にはいかない。
『冷血』は一家惨殺犯の内側に切り込んだ傑作ドキュメントだ。
それは犯人の内面に、トルーマンの内面が干渉しているからだ。
読者の興味と共感を上手く煽っている。
大事な事は、常に多面的な見方があり、“内側”からでしか分からない事がある。
幸せそうな家族は、本当に幸せか?
歴史上の人物は偉大か?
不幸にしか見えないあの人は、本当に不幸か?
その方法は正しいのか?
その方法は間違いなのか?
夏は暑いのか?
冬は寒いのか?
そんな事を考えながら、浜松の街中に出て来てしまった💦
熱帯夜の板屋大通りを眺めてダラダラしている。
さて、そろそろ“あそこ”へ行くか?
…というか、早く“六兵衛🏮”(閉店)以外の激安居酒屋見つけないとなあ。