鈴木篠千の日記

2度目の移籍。浜松近郊でフリーライターしてます。①日記(普段の生活やテレビの話題と社会考察) ②プロレス心理学(とプロレス&格闘技の話) ③非居酒屋放浪記 ④派遣録(派遣していた&いる時や過去の話)

不寛容な平昌

連日、平昌五輪のニュースを楽しみに観ている。
昨夜のカーリング、なかなか面白かったな。

だが、母親かキレている。
羽生結弦にキレている。

…正確には『羽生結弦ばかりを報道するテレビ局に』である。

金獲得以降、連日に渡りその演技が報道されている。

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それが「しつこい!」と言うのだ。
「1度観たら十分。それを何度も何度も…」と怒っている。

また、友人の一人が同じくして金獲得の小平選手にキレていた。

…こちらも正確には『小平選手の金メダル獲得に沸く奴等』にである。

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友人いわく、
「彼女(小平)はこれまで世界選手権を何度も勝っている実力者。五輪金メダルは必然だ。何を今頃、『金メダル、おめでとー!』だ。元からそういう力があったのだ。泣く奴までいる。バカか?」
と言うのだ。

平日はあまり五輪報道を見ない俺としては、度々流れる羽生クンの映像はみたいし、何度観ても嬉しい。また、小平選手の金獲得の瞬間も何度観ても嬉しい。

母親の怒りは、あまりスポーツに興味が無いから、単に『羽生、羽生…って飽きたわ!』というもので、

友人の怒りは、どこか"嫉妬"の匂いが漂う。(しても仕方ないのだが…)

しかし、単純に日本人として『金メダル獲得』は嬉しくないのか?
この喜びが何故、執拗さや嫉妬に負けてしまうのか?

逆に理解出来ない。

最近、盛んに社会の『不寛容さ』が指摘されている。
世の中(特にメディア)に出る物事を他者なのに自分の近辺であるかのように"判断"する。
そして、何故か拒絶する。

しかし、よく考えてみたら、羽生クンや小平選手が平昌でメダルを取ろうが取まいが、観ている我々の生活に及ぼす影響は少ない。
例えば、金メダルを逃したとして、我々が何か失なうわけではない。

強いてあるなら、メダル獲得の有無を見て、嬉しがったり悔しがったりするだけである。

それを寛容できないのは、逆にスポーツを寛容していないだろうか?

今回、俺はハーフパイプやビックエアー、モーグルなどをよく観ている。
なかなか楽しい。
日本人以外の選手の演技も何故か、観いってしまうのだ。
あの、コケそうなギリギリで着地するのが見ていて緊張感があって楽しい。