自己ユーティリティの高い人間の特徴として、"非常に勇気が無い"、つまり度胸が無い、"意気地無し"というものがある。
何故か?
自己ユーティリティの高い人間は常に自分の良く知った人間としか交流を持たない。
だから、よく知らない他人、初めて会う人間を嫌う。
相手がどのような人間であるか、わからないと関わりたくないのだ。
未知の人間は、自分にとって、いかなる言動をしてくるか、わからない。
敵か、味方か、それが判然としない人間は恐怖しかない。
だから、猛烈に怖がるのだ。
自分の威の効かない他人が恐いのだ。
前に長州力がファンの女性(後の妻)に初めて会った際に、長州のマネージャーが同席し、そのマネージャーを介してしか話さなかったエピソードを書いた。
これがまさにそうである。
立派な男性である長州が、若いファンの女性の言葉に怯える…。
自己ユーティリティの高い人間からすれば、他人は自分と平等。何をしてくるか、言ってくるかは自由だ。
ひょっとしたら、自分を否定してくるのかもしれない。
そんな他人などと会う度胸など無いのだ。
ゆえに、俺は"自己ユーティリティの高い"人間に
「この、腰抜け野郎が!」
とあえて罵るような言葉を吐く。
挑発と言って良い。
他人から「腰抜け!」などど蔑まれることなど受け入れられない"自己ユーティリティの高い人間"は、
「何をぉー!」
と『腰抜けでは無い!』とばかりに無理をする。
こちらの思う壺だ。
俺の思う"勇気"、"度胸"は他人から言われて発奮する、"その場限り"のものではない。
それは言うならば、『仕方なく見せた』勇気や度胸であり、見栄や建前に近い。
「ほらっ、俺は腰抜けじゃないだろ?」
そう言われたいが為の、"ヤケクソ"に近い感情であり、度胸とは違う。
俺の思う勇気、度胸は、『腰抜け!』と罵られてもそれを受け入れる度量だ。
人にはそれぞれの"主観"がある。
誰かにとっての"勇気"は、誰かにしたら"無謀"かもしれない。
自分が間違っていないと、思うのなら、腰抜けと謗られても、「ああ、そうだよ」と涼しい顔ができるはずだ。
『腰抜け』=『度胸が無い』ではあるが、『腰抜け』と呼ばれる度胸はあるはずだ。
本当に度胸の無い人間は、その場限りの度胸を示し、自分を誇りだがる。
俺はそう思う。
それは、「腰抜けが!」と罵る俺自身が『腰抜け』だからだ。
他人が恐い。
他人と関わりたくないのだ。
自分を尊敬し、考慮してくれる人間たちとしか付き合いたくない。
何の事は無い。
俺も長州同様、未知の人間を拒む情けない人間である。
だが、そんな情けない人間が自分であることを知っている。
知っているからこそ、他人に『腰抜けが!』と悪態を放ち、他人を試し、推し量るのだ。
この人間に勇気はあるか?
批判されてもやり抜く気概はあるか?
他者からの非難を受け入れる度量を持ち合わせているか?
他者の自由を認めているのか?
"勇気の証"を確認している。
他人は自分と違う。違う考え、見方、捉え方、感じ方をする。
卑怯で、ずる賢く、強く、自分より優れているし、劣ってもいる。
それが、他人だ。
何をしてくるか、わからない。
だか、恐れてはいけない。
いきなりブン殴ってくるかも?
シャイニング・ウィザード(閃光魔術)をされるかも?
だが、怖がってはいけない。
『受け身』はプロレスの基礎だ。
受け止めてやれ。
全ての"技"を受け切ってからプロレスは始まる。
意地という"見栄"を張るのも"受け"かもしれない。
ならば、"痛み"を覚悟しろ。
相手が何を言ってきても、受け入れたら、そこから始まるのだ。
お前の意地を見せてみろ!