今年の6月9日、両国国技館で新日本プロレス、全日本プロレス、プロレスリング・ノアの3団体合同興行『ALL TOGETHER AGAIN 元気があれば何でもできる! 』が開催されることが決定した。
こんな記事を少し前にネットで見た。
2012年2月、東日本大地震からの復興を願い、仙台で開かれた大会。2度開催されたかな?
最後にレスラーらが歌うのがおかしかった。
今回は「コロナ禍の混沌からのリスタート」「プロレスの力で元気を発信」ということで、今年の11年(通算3回目)に開かれるらしい。また歌うの?
第1回、第2回大会では、棚橋弘至&諏訪魔&潮崎豪の3団体エーストリオや、武藤敬司&小橋建太のドリームタッグが実現。
第3回大会も、団体の垣根を越えたドリームカード実現が期待される。 大成功を収めた『プロレス夢のオールスター戦』 『ALL TOGETHER』以前のプロレスメジャー団体が一堂に顔を揃える
オールスター戦といえば、昭和からのファンは1979年8月26日に日本武道館で行われた『プロレス夢のオールスター戦』(東京スポーツ新聞社主催)を真っ先に思い出すことだろう。
新日本、全日本、国際プロレスという当時の(男子)3団体すべてが出場した文字通りのオールスター戦で、メインイベントではジャイアント馬場とアントニオ猪木が、約8年ぶりに最強タッグチーム「BI砲」を再結成し、アブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジェット・シンの最凶悪コンビと対戦。プロレスファンの夢が叶った伝説の大会だ。
この『プロレス夢のオールスター戦』は日本武道館に当時の同所観客動員新記録となる1万6500人(超満員札止め=主催者発表)の大観衆を集め、興行的にも大成功。第2回大会や数年に一度の定期開催が期待されたが、その後、馬場、猪木両巨頭が存命の間は全日本と新日本の合同興行は一度も行われず、選手の交流も1990年2月10日、新日本の東京ドーム大会まで約11年間封印された。
俺はこの記事で思い出していた事があった。
当時、新日本にはテレビ朝日、全日本には日本テレビが付いており、映像権利関係や対戦カード、通常の興行に及ぼす影響などさまざまなクリアすべき問題があり、合同興行開催はそれだけ難しいものだったのだ。しかし、1979年の『プロレス夢のオールスター戦』から2011年の第1回『ALL TOGETHER』まで、オールスター戦と呼べる大会が一度も行われなかったかといえば、そうではない。
じつは90年代に興行規模としては過去最大級で開催されながら、今ではプロレスの歴史から半ば抹消されている大会がある。
そうそう、これ、これ。懐かしいな。
それが1995年4月2日、『週刊プロレス(以下、週プロ)』を発行するベースボール・マガジン社(以下、BBM社)が主催し、東京ドームで行われた『夢の懸け橋~憧夢春爛漫』だ。
『夢の架け橋』…。
初めて買ったプロレスの増刊号がこれだった。
高校2年の春だったかな?
確かに覚えている…。
俺が、全日本ファンから新日本(“ワールドプロレスリング📺️”)も観だして、プロレスに完全にハマっていた高校生の頃、この大会があった。
“にわか”に近かった俺は、複数あるプロレス団体間の由縁など分からず、ただ(…ん?、これは団体対抗戦?)と単純に思っていた。
だが、これはそうではない。
各団体が、それぞれの試合を“提供”する大会だった。確か試合順で揉めた、と聞いたが。
中学の頃にプロレスにハマり、当時の多団体の様相を(何で、全日本プロレスと新日本プロレスに分かれてんの?)と、まるで素人みたいな気持ちを持っていた。
そんな俺は、こんなに複数団体が一堂に介する大会がある事が、特別には思えず、“ごく普通”に思えた。
皆、プロレス村の仲間では?
そんな気持ちがあったりした。
だが、長いプロレスの歴史や団体の成り立ちなどからしたら、このような“合同開催”の大会は極めて稀だった。
今回、ネットの記事でこの大会の開催までの“裏”事情が分かった。
それは“お金💴”と“大人の事情”やプライド、そして思惑があった。(そして、ターザン、大変ね。同情はしないけど)
今回はこのネット記事(「ぼくらのプロレス(再)入門」堀江ガンツ )から、当時の流れと、知らなかった事情を見ていく。(転載、すいません🙏)
主宰は『週刊プロレス』のベースボールマガジン社(=BBM社)だったのは覚えていた。
ちなみに俺は“ゴング派”だった(分かるかな?)
プロレスと言えば、“週プロ”、どこか尖っていて、団体批判的で独善的な記事が多かった(と思う)
“あぶ金”は好きだった。
当時、公称40万部という専門誌としては異例の発行部数を誇り“お化け雑誌”と呼ばれた『週プロ』が主導し、新日本、全日本の2大メジャー団体をはじめ、前田日明のリングス、高田延彦のUWFインターナショナル、船木誠勝・鈴木みのるのパンクラスというUWF系団体。さらに大仁田厚のFMWなどインディー団体や、女子プロレスなど、男女13団体が参加し、6万人(超満員=主催者発表)の大観衆を動員した『夢の懸け橋』。“ドームプロレス”全盛時代の90年代を象徴するイベントのひとつだが、
今、各メディアでこの大会が振り返られることは極めて少ない。 その大きな理由のひとつとして、『夢の懸け橋』はプロレス団体主導ではなく、『週プロ』(BBM社)というマスコミ主導で行われたということが挙げられる。
こういうプロレスの大会が出来るのは、まさにプロレスブームの高まりがピークだった、と見る向きがたる。俺はのめり込み出して、まだ日が浅かったが。
確かに団体も多かったし。
かなり盛り上がっていた。(特に新日と全日)
俺が「プロレスは八百長だろ?」などと言われ、U系団体に興味を抱いていた頃。“リアル”なプロレスが欲しかった。
そして、UWF系団体(インター)にハマりだした時か?
ま、“プロレス合同大会”に出ている時点で、UWFはプロレスだったのだが…。
1979年の『夢のオールスター戦』も東京スポーツ新聞社主催だったが、東スポは大会開催決定前から新日本、全日本、国際の3団体首脳と会談を重ね、大会はアントニオ猪木、ジャイアント馬場、吉原功という各団体の社長同席のもと記者会見にて発表。東スポは主催者ではあるが、各団体の仲介役に徹し、あくまで3団体の合同興行という『ALL TOGETHER』に近いかたちで行われた。
これに対し『夢の懸け橋』は、大会開催も対戦カードもすべてBBM社の自社媒体である『週プロ』がスクープとして発表。オールスター戦を「プロレス界全体のイベント」ではなく、自社イベントという形で独断専行したことに、東スポを始めとしたスポーツ紙やライバル誌『週刊ゴング』など、他のマスコミが総じて反発。これだけのビッグイベントながら、『週プロ』(と友好関係にあった『週刊ファイト』)以外、大会の模様がほとんど報道されなかったのだ。
『週プロ』主導の大会はいかに決まったのか? なぜ、このようないびつなオールスター戦が開催されたのか。
確かに、週刊誌の主宰というのは不思議だったな。
カードまで決めるのは、揉めそうだ。
当時、『週プロ』のカリスマ編集長として絶大な影響力を誇っていたターザン山本は、開催までの経緯をこう語っている。
「BBM社がプロレス興行のために東京ドームを押さえたっていうのは、『週プロ』の編集長だったボクにとっても寝耳に水、まったく知らされていなかった話なんですよ。 BBM社には事業部があって、それまで会社の創立記念行事として新日本から興行を買ったりしていたことはあったんです。しかし、それらは後楽園ホールなど、比較的小規模な大会。それがみちのくプロレスの大田区体育館大会(1994年4月29日)の興行を200万円で買ったら、売上が2000万円以上あり大儲けした。
これによって、社内で『プロレス興行は儲かる』という認識ができあがってしまった。大田区大会は、たまたまみちのくプロレスが一番勢いに乗っていた時期だったから当たったビギナーズラックみたいなものだったのに、BBM社の事業部はプロレス興行の素人だからそれがわからず、勘違いしたんです。 そのタイミングで、たまたま野球界と懇意にしていたBBM社の社長が、株式会社東京ドームから『4月2日が空いてますから、御社でやりませんか? 』と言われて、人がいいからOKしてしまったんですよ。その話を聞いた時はビックリしたよ! なんのプランもないのにドームを押さえちゃって、『どうするんですか? 』って聞いたら『新日本と全日本の対抗戦をやればいいんじゃない?」とか、事業部の責任者が簡単に言うんですよ。できっこないじゃない、そんなもん。できるなら両団体がとっくにやってますよ。無知ほど恐ろしいものはないと思ったね」
200万👛の“売り興行”が、開催で2000万💴に…。
まさにプロレスバブルだ。
で、単純に団体の事情を知らない社長の“勢い”だったのだ。
団体の成り立ちを知ると、これがいかに無謀か、分かってくる。
調整するターザンは大変だ。(好きじゃないけど…)
“顔も見たくない💢”という人間ら(レスラー)を集めようとし、『一緒に大会するからレスラーを送り、試合を提供してよ』、というのだ。
ここまでのレスラー間の人間関係を考えたら、まず、あり得ない。(前田はよく許したなあ)
だが、それが出来てしまうのは、やはりお金💴か?
「一団体500万。新日本と全日本は特別に2000万円」
山本は、東京ドーム大会がいかに無謀か、そして団体対抗戦をやることがいかに難しいかを事業部に訴えたが社命には逆らえず、結局、週プロ編集長として総合プロデューサーを引き受けることとなる。
この時点ですでに大会まで約4カ月の時間しかなく、広いドームを埋めるためには、少しでも告知期間を長くしなくてはいけない。そのため他団体への根回しなど後手後手に回り、取り急ぎ大会開催だけが先に発表されることになったのだ。
限られた時間で団体対抗戦の話をまとめるのは不可能と判断した山本は、各団体が1試合ずつ提供するプロレスの品評会のようなオールスター戦にすることに決定。団体の枠を越えた夢のカードはないものの、交流戦自体が珍しかったあの時代、新日本の闘魂三銃士や全日本の四天王、さらには前田や高田、大仁田らが一堂に会する機会はこれまでなく、十分ファンの興味を惹きつけるものではあった。
四天王(三沢川田小橋田上)、三銃士(橋本蝶野武藤)、高田、前田、大仁田…。
それが一堂に集まるのは、単純にファンとして観たい。
観客が集まる、それはお金💴が集まるという事。
で、やはりお金💴だ。
交渉には金銭は欠かせない。
「とにかく各団体に出場の了承を取り付けなきゃいけない。そのためにはお金が必要だから、各団体一律で500万円、新日本と全日本の2大メジャーだけは特別に2000万円という金額を提示したんですよ。500万といえば、後楽園ホールを超満員にした時の純利益。それが1試合でもらえるなら、どこも普通はOKしますよ」
こりゃ、“良い話”に思える。
それぞれの事情を知らないなら、だが。
各団体との交渉は、最大手の新日本や、ターザン山本と犬猿の仲だった前田日明のリングスがOKを出したことでスムーズに進むかと思われた。しかし、メジャーもう一方の雄、全日本のOKがなかなかでなかった。当時、山本がジャイアント馬場の個人的なブレーンを務めるなど、週プロと極めて友好的な関係を築いてた全日本の参戦がなかなか決まらないことにBBM社の事業部は慌てた。
ネックは全日本だったのか?
一時、ターザンは全日のカード編成に口出ししていたくらい、馬場から信任されていたはずだが?
「当時、全日本はまだ東京ドームに進出していなかったので、プライドが高い馬場さんは、『なんで雑誌社がドーム興行をやるんだ』って不快感を露わにしたんですよ。それでギリギリのタイミングまでなかなかOKが出なくて、最終的に全日本だけさらに1000万円上乗せして、3000万円でようやくOKが出たんです。週プロとの友好関係は別として、しっかりビジネスとして最大限のお金を引き出した馬場さんは策士ですよ!」
馬場、すげー。役者が上手だ。2000万を3000万に。しかも金額の高さだけではなく、ライバルの新日本に“勝った”という結果まで付ける。
まさに策士だな、馬場。
他人と自分を計る“物指し📏”は、やはり金銭💴
馬場は分かっている。
逆を返せば、お金💴のチカラは実現力を推進する。
因縁も軋轢も嫌悪も「ま、稼げるなら…」「ギャラ💴あるなら」と乗り越えてしまう。
ここも社会では重要だ。
社会は、露骨に金💴で動いてしまう。交渉には💴という📏がある。
だから、お金💴で“動かない”者には苦慮する。
社会や会社でも、
「言うこと聞かないと、給料出さんぞ?」
「誰がお金出してると思ってんだ?」
「金払うって言うのだから、やれよ💢」
そんな“バカ”が多くいるからな。
お金の重要さを分かっている、とも言える。
たまには、それが通じない者もいる。
それが天龍のWARだった。
こうして各団体との交渉はほぼお金で解決することができたが、唯一、お金で解決できない団体があった。
天龍源一郎のWARが4月2日の同日、ドームの隣の後楽園ホールを押さえていたのだ。週プロは、1990年に天龍が全日本を退団しメガネスーパーが設立した新団体SWSに移籍したとき、編集長のターザン山本が先頭に立って大バッシングを展開した過去があり、SWSが分裂しWARが旗揚げしたあとも天龍と山本の個人的な冷戦状態が続いていたため、交渉は全日本以上に難航した。
「4月2日に東京ドームで興行をやると決まった時、『きっと同日、後楽園でどこかの興行が入ってるはずだ』と嫌な予感がしたんですよ。それで後楽園の予約状況を調べてWARが押さえているとわかった瞬間、俺の命運も尽きたと思ったね。 仕方なく、天龍の義弟であるWAR武井社長に『代金はこちらで補填するので、後楽園を中止してドームに出てください』とお願いしたら、『金で解決する気か? 』って反発されてね。その時、ボクはなかなかOKが出ないことにイライラして、決定的な失言をしてしまうんですよ。『ドームに出ないなら、WARをマイナーなところに追いやることになる』ってね」
俺は失礼ながら、こういう事を言うターザン山本(!)があまり好きではなかった。
露骨さを“素直な自分”みたいに装うのが嫌いだ。
マスコミという、“チカラ”をチラつかせるもどうかな?
この山本の失言は武井社長の怒りを買い交渉は完全に決裂。WARは『夢の懸け橋』への参戦拒否を表明し、後楽園ホール大会決行を発表。
これを報じる『週刊ゴング』の表紙は、天龍の写真とともに「俺は金では動かない!! 』の大コピーが躍った。これは天龍がSWSに移籍した際、『週プロ』がさんざん「天龍は金で動いた」と書いたことに対する強烈な意趣返しとなった。
この経緯は『SWSの興亡』として取り上げたい。、この団体は、様々なレスラー(やオーナー)の思惑があり、それで崩壊した。だが、また別の話。
この『俺は金で動かない』の見出しとWARの後楽園大会の記事も覚えている。SWSの事情を知らなかった俺は、(…WARって頑固だな😃)と思っていた。
結局、13団体が参加した『夢の懸け橋』は6万人の大観衆を集め、WARの後楽園ホール大会も超満員札止め。プロレス界全体が大いに盛り上がり、無謀と思われたBBM社主催のオールスター戦は一応の成功を収めた。
しかし、それは同時に『週プロ』黄金時代の終わりでもあった。
そうなのか?
ここ(1995)から五年間はプロレス“黄金期”に思えたが?
グレイシーやK-1の“波”が来るまでは。
だが、これで“週プロ”の在り方が変わったらしい。
「それまで『週プロ』はどちらかというと反体制派のアウトローだったのが、ドームでやることでメジャーになっちゃって、WARを支持した『ゴング』がアウトローになったわけよ。立場が逆転して『週プロ』が体制派になるという最悪のイメージができてしまい、求心力が急速に失われた。こっちはホントにいい迷惑だよ!」
山本が言うとおり、『夢の懸け橋』開催決定後、『週プロ』誌面は興行の宣伝ばかりが目立つようになり、それを『ゴング』が舌鋒鋭く批判。それまで“攻め”の『週プロ』が守りとなり、『ゴング』とのカラーが逆転した。さらに『週プロ』やターザン山本の影響力があまりにも大きくなったことに反発するファンが続出。『夢の懸け橋』メイン終了後、橋本真也の呼びかけでターザン山本がリングに上がった際、大ブーイングが飛んだのがそれを証明していた。
また、主催者発表で6万人もの観衆を集めたにもかかわらず、BBM社の利益は期待を大きく下回ったという。「『夢の懸け橋』は実数で4万人以上入ったから、本来なら大儲けのはずなんですよ。でも、チケット代はリングサイドこそ3万円だけど、大半を占めるスタンド席は5000円と3000円。今のドーム興行より遥かに安いんで、たいした収益じゃなかったんです。しかも13団体にたくさんギャラを払って、ドームは会場経費だけでも約1億円。ギャラ以外にも選手のホテル代もあるし、全日本なんか前日九州で興行があったから、カードは6人タッグマッチなのに大分から14人で来たからね。その飛行機代もぜんぶこっち持ち。とにかく相当な経費がかかってる。だってあのとき『3万3000枚売れないとペイできない』って言われたもん」
『夢の懸け橋』はこうして“黒歴史”になった今年2月21日に東京ドームで行われた武藤敬司引退試合の観客数が主催者発表で3万96人。
チケット料金が違うとはいえ、『夢の懸け橋』のペイラインがあまりにも高すぎなことがよくわかる。
プロレス興行なら、ドームは“満員”で60000人強くらい。
半分の30000人でも、“ペイ”できないか?
だが、この時の🎟️料はドームのスタンド(席)が5000円?
安い!
そんな安かったのか?
そりゃ、赤出るな?
こうして『夢の架け橋』は黒歴史扱いになってしまったらしい。
この一連の事情から、別の印象を俺は受けていた。
それは『交渉の大事さ』だ。
プロレスに詳しい方は、こうした“合同開催”の無謀さが分かるはずだ。
WARのように、金で動かない奴もいる。馬場(全日)のように交渉で駆け引きを仕掛けてくる奴もいる。
そもそも“ライバル”なのだ。
盛り上がっていたとしても、なかなか了承しないだろ?
だが、だがらこそファンはそれを観たいし、チケット🎟️は買いたくなる。
それが成り立たせるのが、交渉だ。特に“お金💴を絡めた”交渉だ。
それが出来る人間のみが、それが可能だ。
交渉できない人間は、それこそ“夢”だけを語りたがる。
(こんな大会観たい❤️…)
(集まれば、きっと面白い❤️…)
そんな人間はあくまでも“観客”だ。リングやレスラーの熱い戦いの熱気を受けとるのみ。興奮(ヒート)を“待つ”のみ。
自分からは動かない。交渉しない、できない。
交渉は、自ら動かないといけない。
だから、出来ない。
受けとるだけの“観客”は興奮や熱狂を産めない。
願うのみで、他人任せだ。
この『夢の架け橋』を(凄い)と思えたなら、それはやはり“観客”だ。交渉出来ない人間だ。
交渉するから、物事は“進む”
“橋”は架かる。
仲の悪さ、過去の因縁、互いの関係性、それを壊したり、避けたり、宥めたり、誤魔化したり、お金💴で釣ったりするのが、交渉だ。
そして、目的を“達成”する。興奮と熱狂を産み出す。
(…無謀)と書いたが、無理無謀と思うだけなら、やはり交渉は出来ないのだろうな。